internet_food_meshi_tero


 天才はいる。悔しいが。

というとトウカイテイオーのことですね。ウマ娘面白いですね。はい、世の中には天才がゴロゴロ居ますね。びっくりしますよねほんとに。天才の可視化がSNSによって随分とされたように思います。15才で信じられない精度の人物画を書く人とか見たら卒倒します。はい。

 でも別に天才見たっていいじゃん。はい、良いです。我々は天才達の画期的な発想でアップデートされ続ける社会で徐々に豊かにしてもらって生きながらえています。天才の所業を見守るのはとても大切です。しかし天才はある程度距離を置いて見ていた方が良い。天才をSNSであまり見ない方が良い。そんなお話をば。





■天才は評価される(当たり前)

 天才の所業というのは当然ながら評価されます。異次元すぎる人は「他人が評価する基準の枠内」に入らないので評価されなくなる、みたいなのはまた別の話です。天才の所業は評価されます。称賛されます。すごい、なんてすごいんだ、すごい、天才はすごい。すごすぎる。語彙力を見失いながら皆褒めます。


■評価という精神の報酬

 サピエンス全史の考えを参照にするのであれば、人は評価による精神的な報酬を得るようになっている動物です。評価がそのコミュニティにとっての人間の存在価値となり、存在価値の大きな人間ほど「殺されずに済む」というところからの本能のようですどうやら。人間は評価されたい欲からは逃げられない。たまに評価とかどうでもいいっていう次元の人も居ますがその人はそもそもこんな悩みには陥らない。


■SNSの天才は「いいね集め」の天才

 メンタルが落ちている時のSNSの悪い所は、天才がいいね・評価を集めている様子が次々に流れてくるから。SNSのいいねは人間の幸福度を下げているという報告が方方から上がっております。SNSにおける天才というのは「SNSでいいねを集める天才」になります。つまり我々が報酬として求めている「評価」を集めている様子をまざまざと見せつけられるわけです。これは才能であり能力なので、いいねを集められない人はずっと集められません。集められないのに評価されている人の事を見続けなければならないわけです。苦痛オブ苦痛。

 またこれはあくまで「SNS上で評価を集める才能」なので、世の中で良いとされる行いなどとはまた違うベクトルに評価が働いています。そのズレにより貴方の精神が「なんであんなくだらないことにいいねが集まるんだ!? 自分は評価されないのに!」みたいな心のザワつきを生んだりします。これは大変良くない。


■報酬を得られない→自分の価値の矮小化→精神不可が更にかかる

 報酬(いいね)を得られないことにより、相対的に自分の価値を低く見積もるようになってしまいます。現実とSNSの切り分けなんて出来てるよって口には出来ている人でも案外引っ張られたり。だって日常会話にSNSの話題は差し込まれるわけですから…。

 これによって自分の価値を矮小化します。そこそこいいねとれてた人でも「再度評価を得なければ」という焦燥感に駆られて心がマヒしてしまう。

 周りはあんなに日々評価されているのに自分なんて。

 そうやって結果として精神に異常なストレスがかかり、心が砕けていきます。心臓に毛が生えている猛者でもないかぎりはこんな苦痛にさらされ続けていたらおかしくなっちゃいますし、毛が生えている人でもいずれ摩耗します。


■SNSから離れて自分の出来ることを粛々とやるのも一興

 私達は現実を生きているわけでSNSに生きているわけではない。SNSネイティブな人、評価経済うんちゃらに飲まれている人は狂想曲に飲み込まれている。何かを為すには確かにSNSが大切になってきているが、私達は現実を生きているので現実の生活について着実に一歩ずつ踏み出すのがのが結果的には精神不調に効く。植物などを育てるのがこの手のセラピーで良いと言われるのは「自分の」お世話が植物に反映されフィードバックされるから。

 SNSは目立つ才能がなければ空虚なもの。暖簾に腕押しなんてレベルではない。ただただ拳が空を切っているだけ。そんな気持ちでSNS使ってないと言った所で、オフラインにでもしない限りは評価評価のガヤガヤした空気は流れ込んでくる。その数値は貴方へストレスを運んでくる。

 参ってる時はSNSを見ない方がよい。太陽を浴びて、ご飯を食べて、散歩をして、風呂に入って、マッサージして、余裕がアレば本でも漫画でも見て、グースカ寝る。SNSの入り込む余地など無し。 というわけでSNSは離れた方が良いです。