私の家庭はとにかく承認がなかった。おだてられることはあっても承認は無かった。相談しても解決策の押し付けしかされなかった。私は承認されたかったけど、誰からも承認はされなかった。

 人は承認が無ければ生きていけない。

 というのは最近聞いた言葉で、たしかにたしかに。と。短く大切な言葉で自分の中でしっかりと刻まれました。


 私の承認を満たしたのは当時はゲームでした。面白いゲームの本質って、一つがプレイヤーの承認が満たされることにあると思うのですね。格闘ゲームも絶妙なCPUの強さじゃないと、負けて悔しいが募ると承認されない。RPGでも主人公が勝手にべらべら喋って意味わからない行動して私の意志じゃないのにパーティーに説教されたりとかを見ていると承認されない。

 脱線。ゲームは私の承認をそれはもう満たしてくれたわけでして、親としては目の敵だったでしょう。親よりはるかに私を承認してくれるんですからねゲームってやつは。

 しかしゲームの承認が私の社会性を見事に損ねたという側面もあります。だって優れたゲームはそもそもプレイヤーを承認する仕掛けがたくさんしてあって、ようはクリエイター達が知恵を絞って考えた接待のコースを楽しんでいるんですからね。

 次第にというかやはりというか、社会性は失われゆきます。ゲームよりも現実は承認が無いからです。誰も平等に承認なんてしてくれないし。そんなわけでますます私はゲームの方が楽しい承認相手となりますのでした。

 さていよいよ社会に出て他人と積極的にかかわらなければならない段に至っても私は承認してくれる他人意外とは極力距離を置きました。しかし承認してくれるのはあくまでマネジメントとしてであったにも関わらず私は他人との距離の取り方を学ばずに社会に野放しになってしまったものですから、承認してくれる相手にどっぷり依存してしまうなど。

 色々痛い目を見てようやく自分を客観的に見る機会ができて、自分は承認を求めていたんだなぁということがわかり、改めて私の家はなにが狂っていたのかを把握し、ことさら呪うようになったり。これはまた別の話。

 さてようやく核心部分。「私は」じゃなくて「人は誰でも」大なり小なり承認を求めているという事実。私は私が苦しいと思って自分のことばっかり見て、自分の事件を必死に解決しようと躍起になってようやく自分のことに対して少し折り合いがつけられるようになりました。

 しかしながら私はその折り合いをもとにようやっと人と接し始めたところで、人も人でそれぞれに何か悩みを抱えながら生きていて。当然承認されることの必要性も私以外の人もたくさん抱えていて。

 私は自分の承認を満たす方法、心の渇望は何だったのだろうか、という問いかけには自分自身である程度解決できるように訓練はしてきていたのですが、そのせい、と言うのはなんですが他人の渇望に焦点が合わない。

 他人が何を欲しているのか、サっと予知できない。対応できない。これが弱点。圧倒的。つらい。なんとかせねばと模索中です。

 数年前の私に対して言っても多分伝わらないけど、いま振り返って結局言えることとしては「他人も私と同じように承認に悩み苦しんで、折り合いをつけたり、あるいは良き家庭でその辺はすでにクリアして社会に出ているぞ、人それぞれだぞ、でも相手を承認すること自体はとっても大事だぞ」みたいなこと思ったりするのでした。

 ちなみに最後に、他人を承認するってどういうことなのか。端的に、具体的に何をしてくれてうれしかったとか、あなたのこういうところは素晴らしいと思うとか、何気ない気づかいに対して「ありがとう」を欠かさないとか、そういこと。らしい。私は見落としまくっている。つらい。

 当たり前だと思って見落としていること、自分ができて当然だと思っていること、そういう部分も人によっては難しいものであったりもして、だからいつもニュートラルな気持ちから物事をもう少し見れるようにならねばと思うのでした。

メールするほどでもないし、かといってコメント欄に書くのも違う、みたいな質問とかありましたらこちらのPeingのページに投げてみてください。何か答えるかもしれません。

https://peing.net/majikuzu_