2015年・2016年のベストセラーに続き、今年もまた大人気書籍と話題の「嫌われる勇気」。今回の話題は、最近放送された「世界一受けたい授業」にて改めて取り上げられたことがきっかけらしいです。まだまだテレビの力はすごいですね。 私自身、この本を読むことで随分と心を楽にしてもらったことがあります。

 せっかくだから自分自身振り返る意味合いも込めて、メモしておこうかなと。


■怒りを制御:他人は貴方を満足させるために存在しているわけではない

 遅刻してきた友達に対する怒り。言うことを聞かない友達に対する怒り。自分の意見を聞き入れてくれない上司への怒り。何故、皆自分勝手で私の事を考えてくれないのか。私ばかりが我慢をして、へりくだって、イライライライラ。

 しかし、アドラーの本著の考えでは、そもそも他人は貴方を満足させるために存在しているわけではないのだ、という教えです。その怒りは無意識に「他人を制御したい。自分の満足の行くように行動させたい」という心理から働くものであると。

 つまり人はどれだけ口先で「あなたのためを思って言ってるんだ」とか「未来ある事共達のために戦う」とか言おうとも、「自分のため」にしか生きていない。決して、貴方を満足させるために生きているわけではない。

 本気で他人の心配をしてるからこそ言いたいという人ももちろん居ると思うけど、それは「誰にとっての課題」なのか? 本当に貴方が解決しないといけないことなのか? 他人が自分で悩み考える事なのではないか? この切り分けをし、他人の課題に口を出さない。そして自分の課題に口を出させない。これこそが自由であり、自分を尊重する行為である、と。

その自由を行使するとき、他人へ介入せず自分の課題に人を寄せ付けいない、自由を手にしようとすることが、嫌われる勇気であると。


■トラウマは存在しない

 これ、よく誤認されるのだけど、アドラはートラウマがまったく存在してないってことを言ってるのではなくて、トラウマによって自己抑制を働かせることがあり、その自己抑制は自分が生み出しているものだから、「トラウマ」というのは自分が「何かをしないため」の言い訳の装置でしかない、という考え方。

 しかしPTSDなどの生命に関わる心的外傷をまるごと否定しているわけではない(トラウマとPTSDの違いには諸説ある)。アドラーの心理学が極端だ、という考え方は、トラウマとPTSDの線引をしないまま、「トラウマを否定している!」と端的に捉える人が居るからだと思われ。

 ただどのみち、トラウマは存在しない、というのが嫌われる勇気においての考え方。「Aという事柄が出来ない」という自分に説得力を出すために、トラウマが利用される。だから、皆が思い描く「トラウマ」というのは、そうではない、ということ。


■「あなたのため」は「私のため」でしかない

 よく親やら先生やら、親切心あふれる人やらが、「あなたのためを思って」とか「貴方が将来困らないように」というような事を言う。しかし、嫌われる勇気では、これらの言葉は全て、「自分のために他人をコントロールしようとしている」という価値観となる。

 これも結局問題の切り分けの話になり、その「貴方のため」は本当は発信した側(私)が安心したいためのものだったりする。


■劣等感による苦しみは、自己の価値を「他人と比較すること」により発生する、すなわちただの「思い込み」

 苦しみの多くは、他人との比較から生じる。その苦しみは誰が生み出しているのか?

 それはもちろん、自分である。

 自分が「世の中の基準」とか「周りの声」を総合的に編集して、「思い込み」を発生させて、その思い込みに自分自身が苦しめられる。嫌われるんじゃないか。笑われるんじゃないか。と。

 その苦しみは、あくまで自分が生み出したもの。これが嫌われる勇気の学び。ウーン。


■人を褒めてはいけない

 アドラーいわく、人は褒めてはいけないそう。褒めるというのは無意識に、相手を見下したり、縦の関係から発生する行為。褒める側はもちろん、その相手の行為に対する評価として、褒めるはずなのだがいわゆるその考え方は「褒める」では無いらしい。

 人間関係はあくまでフラットな横の関係。褒めるという行為はそもそもどうあるべきなのか。それは、其の言葉を受けた本人が「勇気を持つこと・自身を得ること」になる。自信の行動を尊重できるようになること。褒められて単に嬉しい、というのは突き詰めれば「褒められなきゃ何もやらない」状態になる。

 人間が自分の意志をもち自由に生き、勇気を持つには、自分自身を何より信じられる力を与える事である。だから、褒めるという行為では、嫌われない勇気は育まれない。褒めるほどに、人は本来育むはずだった強さを失っていく。褒めた側も、そこに満足する。

 やがて褒められたいがための人間関係が構築され、嫌われないよう嫌われないよう互いにソローリソローリ寄り添う。ウバァー


■哲学であり心理学ではない

 アドラー心理学はココロの持ちよう、パラダイムシフトに対する考え方なので、心理学と言うか哲学の側面が強い。生き方の哲学。特に固有宗教を持たない我々の国の人々にとっては、そして「嫌われたくない」という社会病みたいな考え方が蔓延している中で生きる私たちにとって、この「嫌われる勇気」というアドラーの考え方は、とても刺激的な「生き方指南書」になるのだと思います。いわば現代の聖書。

 これが売れる間では、人生哲学の巨塔と言えば「7つの習慣」だったのですが、あれはどちらかというとキリスト教的な、汝の隣人を愛せよみたいな考え方で、閉鎖的なコミュ障がおおい日本人には衝撃的であれこそ、合う合わないが強かった。(でも幸せに生きる考え方だし、私は好きです)

 そこにきて嫌われる勇気。個として強く生きるための指南書。これは日本人には相性バッチリだった。生き方指南書そのもの。





■「嫌われる勇気」は生きづらさの処方箋であり、免罪符を得る教科書ではない

 メリットを説いてきたけど、アドラー心理学の上澄みすくうと、身勝手に生きてOKなんだという、わけのわからない状態に陥る。アドラーのせいで離婚だよふざけんなよ、みたいな記事もあったけど、都合の良い部分だけ抜き出したらそりゃそうだと。

 その記事によれば、夫婦をお互い褒めないようにしたそうな。そこだけ抜き出したら仲悪くなるに決まってるし、まさか目次しか読んでないんじゃないだろうかというお粗末さ。

 ブームに乗って、なんとなくテレビや人の話を聞くだけで中身に触れないのは、危険行為。しっかりと現物を読み、自分の目で確かめることをおすすめします。

 嫌われる勇気は、血気盛んないかにも日本人的価値観を持つイキり青年の思考を、哲人が一つ一つ理由を説明しながらアドラーの心理学に照らし合わせて解きほぐしていく、小説・ライトノベル調の「物語構成」の哲学本です。大変読みやすいので、まだ手に取っていない人は是非書店で立ち読みしてみると良いと思います。

 最後に、どうせ100人に嫌われようと思ったって10人くらいには好かれる。嫌われようとしたって、そのくらい好かれてしまう。100人全員に嫌われるってことはまぁまずないので、もっと楽に肩の力抜いて、自分が正しいと思うこと、楽しいと思うことに取り組んでみるのが良いのだと思います。

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色々理解してる最中。何かやるかも。
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