人間ある程度年齢になってくると1日にできることの上限幅というのがある程度決まってくる。いや実際には昔から決まってるのだけど、ようは仕事だ勉強だでより自分の時間をきっちりと切り始めてくると、その有限性に気づいてくる。

 そうなると自分の限られた時間リソースを何に使うのかをはっきりさせていく必要がある。こんなこと当たり前の話なのだけど、優柔不断が顔を覗かせることでできなくなる。

 優柔不断には悪いイメージがとにかく付きまとう。周りも迷惑する。だから極力直したくて仕方ない場合がほとんど。だけど良さもある。この性分にはある程度自分が付き合う必要がある。


■決めないことで失うもの

 なんとなく優柔不断が嫌だなと思うよりは、具体的にそれによって何を失っているのかということを自覚すると良いわけです。

 例えば先の話題の自分の人生のリソース振りの話では、優柔不断にあれもこれも手を付けることによって何か一つのことをマスターするでなくあっちへフラフラこっちへフラフラと歩き回ることになります。

 ファミレスで自分の食べるものが決まらなかったり、電池一つ購入するのにあーでもないこーでもないと悩んだり。

 結局何を失うのかといえば、時間です。優柔不断は時間をとにかく奪う。しかも自分の時間だけならまだしも、関わっている人たちの時間も奪っていく。


■決めないことで得られるもの

 というように、悪い側面から見ると優柔不断は害悪。映画などフィクションでも優柔不断なキャラクターというのはだいたい足を引っ張ったり仲間に被害をもたらしたり最悪死ぬ。

 でも一方で決めずに迷うことで得られるものもある。迷うことは悪いだけではなく、迷う時間の中であらゆるものに触れたことで思考が熟成するという場合がある。

 ようは「決めない」という選択をしているという考え方。これが屁理屈にしか聞こえないというのはあると思うけど、先送りにすることで、間違いなく別の人生分岐がすでに始まっている。

 どうしても優柔不断に悪いイメージが付きまとうのは、自分で決めなかった後ろめたさや「決断する勇気がない」などの精神論に基づくもの。しかし全体をもう少し俯瞰で見れば、迷って一見同じ道をぐるぐると回ったり立ち止まったりするという選択をすることで帰って災難を逃れたりする。

 そうそうミストという映画では、この場に残って死を待つのか、逃げ出して危険があったとしても生存するために外へ行くのかという選択が迫られる。この映画面白いのが、優柔不断に決められないままその場に残った人たちに意外な結末が待っている。詳しくは控えるけども、少なくとも勇敢な決断を下した主人公たちよりも報われる終わりを迎える。

 実際この映画のようなことは現実では珍しくない。迷っている間に物事が好転してしまうということもある。でも実際は迷って選ばないという選択をしているに過ぎなかったりする。


■優柔不断はそう簡単に治らない

 優柔不断の直し方のようなことを探す人は結構多いと思うし私も探すけど。じゃあ何か決定的に効果があるものと言われると、正直ウーン。

 人の心のや考え方の本質にある部分は結局のところ習慣によってしか変えられない。優柔不断を直したいなら効果的なのは「悩んだら1日以上先延ばしにしない」とか「ご飯のメニューはおすすめしか選ばない」とかそういうルール決めをする。

 あるいは優柔不断が発動したときにケツを叩いてくれる人をそばに置くとか、そういう外的な要因による自己制御。

 でもこれらの方法はある程度自分の制御を外的な要因によって行っているだけであって、じゃあ自分の本質が変わっているかというと、変わらない。

 まよって吟味して、というのが自分の本質なのだという受け止めをする、ある意味開き直ることもまた大切だったりする。


■マイナスに思われるワードに対して多面的な見方をする

 優柔不断問わず、ネガティブワード全般に言えることだけど、言葉には必ずマイナスの側面とプラスの側面が表裏一体で存在する。

 自分の目に映る世界を少しだけ豊かにするには、一つの物事に対して常に多面的に捉えることが必要だ、と私は感じてる。

 ある人の悪い評判が立てば立つだけ、その人の良さについて考える。
 ある組織の良い評判ばかり聞けば、悪い印象も聞く。などなど。

…こうした考え方に至ったのも私がある意味超絶優柔不断故に思考をなんどもこねくり回したからだと思ってるし、私は今の自分の状態が好きだ。もちろん弊害もあるけどトータルで得してると思ってる。

 ぜひ自分の中に浮かぶネガティブワードを多面的に捉える、という習慣はおすすめしたいところです。

決断力 (角川新書)
羽生 善治
KADOKAWA / 角川書店
2012-10-01