仕事でも生活でもなんでもそうなんだけども、ものすごく大雑把位に分けると、社会において人はこの二種の行動のどちらかを行う。そして私個人の人生の中で感じたのは、他人の不足を補う人の方が割りと穏やかな人生を歩んでいること。また一方で後者もまた大きな成功を収めている、ということ。

 人生の牌をどちらに進めていくのか、少し考えてみると面白いと思います。



■他人と代わろうとするということは、他人の席を奪うということ

 会社というのは、最終的に個人に依存しないシステムが良いとされます。「代わりがいる」状態になることが好ましい。実際に教育でも(今の教育現場は知らないが)基本的には全員が同じ授業を受けて一定数の点数をゲットして、同じ土俵で成績の優劣をつけることで、社会の歯車の代わりになる人間を育てている。

 別にそれが間違いだという話ではないし、ようは人間は会社やひいては国にとって最善の利益をもたらす給電もメンテもフリーな万能人工知能搭載マシンなわけです。

 そんで、誰でも誰かの代わりになれるように教育されている。極論ですけどね。ようは私達の教育の源流は、「代えを作る」ことにあるわけです。

 ところが、「替えがきく」ってことは要するに、代われる力があれば、誰かがそれまで座っていた席を奪う、ということになるわけです。

 こう、俯瞰の視点から語ると「んなこと当たり前じゃん」てことになるとは思いますが。ここで生活に目を向けます。

 例えば何人かのグループで掃除します。皆各々なんとなく作業をはじめましたがAさんだけは手持ち無沙汰になりました。

 そこでAさんはBさんの雑巾がけが大変そうだったので「代わりにやるよ」と手伝います。

 さてBさんはありがたがる、かもしれません。ところがBさんはAさんが仕事をしてくれた代わりに今度は自分の仕事を探さなければなりません。

 もともと自分でやるべきことを見つけて雑巾がけをしたのに、Aさんは善意のつもりでBさんの代わりをやったのですが、結果的にBさんに再び仕事を考えさせるところから押し付けたわけです。

 家事だろうと仕事だろうと、誰かの代わりに何かをするというスタイルはこうして常に誰かが誰かの席を奪うという形になります。別に些細なことだし気にしなくてもいいし。ただ、誰かの「代わりをやる」ってこういう仕組みだ、ということです。


■誰かの不足を補うことは、創造することにつながる

 先程の掃除を例にするなら、Aさんは今度はBさんのバケツの水を交換することにしました。また、ついでに雑巾をもう一枚もってきて、Bさんが汚れた雑巾を持ってきたら絞って交換して渡しました。結果的に二人がそれぞれの作業を分担することで作業が効率化されることになりました。

 Aさんの行動は、Bさんの代わりになるのではない形で、Bさんの仕事を奪わずに「雑巾がけ」という仕事を効率化させることに成功しました。大げさな言い方ですが、Aさんは自分の自分の仕事を創造したことになります。


■仕事ができな人ほど「誰かの代わり」をやろうとする

 私自身非常に耳の痛い話なのですが、昨今の「仕事ができない」と呼ばれる人は、前項のAさんのように、誰かの代わりになることばかりに目を向けがちです。また評価する側にあってもそうした、誰かの代わりになる人材を評価するということもあります。

 しかし仕事ができると呼ばれる人たち、大きなスタートアップを成功させたような人たちのプロダクトは、誰かの席を奪うよりも、既存の遅延問題や欠点などの問題点を解決する仕組みを作りの方が上手い、と感じます。

 一方前者のように誰かの席を奪う形での成功例というと、政治屋でしょうか。またこの界隈は非常に競争が激しくなる傾向になりがちです。だから「誰かの代わりをやる」という方向に目標を定めるなら、苛烈な競争に身を投じる事を覚悟しなければなりません。


■どっちがいい悪いの話ではなく

 明らかに私は「誰かの代わり」について悪意を持って書いてますが、でもどちらにもメリットデメリットがあるなと思ってます。どうしたって大きな仕組みが出来上がった時には、代わりがたくさん居ることの方が大事な時もあります。掃除の例にしたって、Bさんが倒れたときにすぐAさんが代わりになれることもまた大切ですから。

 先程私は歯車という表現を用いましたが、歯車だって一つ抜けができただけで流れが止まってしまいます。たった一人抜けが生まれただけでシステムが止まらないためにも、代わりの人間を育てるというのは大事なことなのです。

 でも世の中の流れとしては現在後者が求められているようになっていますし、人間関係でもそちらの方がスマートである場合が結構多いように感じます。代わりの効く仕組みほどテクノロジーとの代替えが済まされていっているなと。個人の主観になっているとは思いますけど。


■自分はどちらを向いてるのか意識すると良い

 この2つの考え方は相容れるものではないと思います。ただ自分がどちらを向いているかすらわかっていない場合があります。これはあまりよろしくはない。なので、どちらに向かっているのか、向かいたいのか。はっきりさせておくといろいろと良いです。