私の20代前半までの人生はとにかく壊滅的だった。もう目も当てられないくらいに壊滅的だった。過去については色々語ってるので、ここでは言及しません。興味がある方はこちらなど。


 本当に本当に辛い20代前半だったけど後半は、その辺の辛さが軽減されるようになってきたし、自分のようなタイプの人間はもう少し早くこうした考え方習慣などを手に入れられれば、楽になれるんじゃないかと思って、書こうと思った。



■オールマイティを諦める

 これについては辛辣な意見としては「負け犬の考え方」「だからお前の人生はクズなんだ」みたいな強い言葉をいただきます。正論だと思います。

でも出来ないものはしゃーないし、人生の費用対効果的に見て考えても、何かを諦めるかわりに他の人よりも遥かに多くの時間を特定の部分に割いて、一つのことに特化することの方が割が良いです。

 営業もできて技術もできてモテて健康で運動も抜群にできてスピーチも完璧で料理もプロ級で人脈もものすごくあって。。。いや実際そういう人間が居たりするから厄介なのですが、今すぐにそんな人間になるというのは無理ってもんで。

 でもそうした人は一時期選択と集中をかけて、その成果のお陰で他のものも手にする余裕が出来た、というようなもんだったりします。晩年のジョブズは誰もが尊敬する人物に形作られていますが、学生時代からそうした人間だったかと言えば伝記などを読んでも、ウーンといった内容。


■人間は、なんでも出来ない

 個々の人間の今を形作るのは0歳から今日までの環境や身体的特性などや先天的な才能であり、それら省みれば必然的に出来ることと出来ないことが生まれてくるのは仕方ない。

 会話下手な両親の元では会話能力が身につかないのは仕方ないし、料理が苦手な家でジャンクばっかり食ってれば、繊細な味付けは苦手になるかもしれない。勉強が苦手な親の元で勉強が得意になるというのは難しいかもしれない。

 今を形作るのは生まれてきてから今日までの自分の環境等々が作用した結果である。でも一方では、何かを得られなかった代わりに何かを得意とすることもあるし、何かを得られなかったというコンプレックスから克服しようと努力するなんてこともある。

 いずれにしても理屈的にオールマイティな存在というのは不可能。この不可能を認識出来ないことにより、苦しみが生まれる。諦めることを罪だと思う意識や周囲の雰囲気が、苦しみを生む。

 どう理屈で考えたって出来ないことは出来ない。それ以上でもそれ以下でもない。


■自尊心と傲慢さ

 そもそもオールマイトな人間になろうとするのは、自分が全てにおいていざとなればなんとでも出来るという傲慢な自尊心を持っているということです。理由のない自信というのはある程度は必要ですしその自信を原動力に活動する人というのも多く存在します。

 が、それによって苦しいと思うのだったら、その自信の持ち方は多分自分にとってはふさわしいものではないのだと思います。でも気質をすぐに変えるというのは無理があります。


■一つのことに集中する時間を設ける

 前置きが長くなりましたが、選択と集中でやはし効果があったと思えるのは、コアタイムを設けること。誰にも邪魔されない時間を生み出した事。集中する時間を設けた事。

 とくに私のようなメディアとかインターネットとかに毒されている人は、絶対に自分の一日の中に自分だけの区切られた時間を設けた方が良いです。

 本を読む、勉強する、趣味をする、仕事する。なんでもいいから、とにかくコアタイムを作ること。大事。とても大事。コアタイムにより得られる選択と集中の時間は、自分の今を整理したり、効率的な学習をしたり、身体を心を休ませたり、などなどあらゆる効能を生みます。

 個人的には睡眠の次に人生にとって大事な時間だと思ってます。


■生活のルーチン化(例:服装の統一)

 私のやってる選択と集中の中でわりと効果的だと思っているのは、服装の統一化。私は年がら年中、下はチノパン上はシャツとジャケット。 服買う時間も選ぶ時間も着るときに考える時間も何も必要としない。

 別に服じゃなくても、毎日決まったものを食べるっていうストイックな人も居る。ストクイックというのは、ようは自分が何に対して集中して取捨するのかっていうのが生活レベルで現れてること。

 他人に同意されなくても、自分の中で定まっているものがあるのならば、なるべくそれ以外のノイズになるものは振り払うことを考える、というのも自分悩みを打ち払う効果があったりする。

 それによって捨ててしまった別の部分は誰かにやってもらえばいいのです。


■自分が選択と集中している間も誰かが補ってくれる

 世の中のバランス的にも面白いもんで、よく言われる例としては組織というのは2割の働き者が回しており、残り8割は無駄なことをしたりサボったりしている。ところが働き者の2割を排除すると、8割のうちのまた2割が働くようになる。

 選択と集中することで何かがおざなりになってしまうのではないかという恐怖心に駆られる人は私含めて少なくはないと思うのだけど、それは杞憂。猛烈に何かに対して集中している自分のバランスに併せて周囲というのは其の役割に応じた動きをする。そうなっている。面白いことに。

 だから、自分が偏ったバランスになろうとも、そこまで気にする必要は無い。


■とはいえ固執しすぎない

 選択と集中は素晴らしい。壊滅的だった人生がウソのように物事が上手くまわりはじめる。だけどあまりに集中していて、大事なことを見失うこともたまにある。何事も限度が必要だということも、この選択は教えてくれる。

 あまり固執する必要も無いと思う。でも、ざっくばらんに何でもやろうとするのはやはり自分の人生をがんじがらめにした挙句、得られるものも少ないという二重苦で冗談抜きで脳みその奥が軋むように痛くなる。

 そもそも教育や道徳、メディア等で発信される常識論みたなものが完璧主義を求めすぎている。どう考えたってそんなの不可能だ。そんなもの人間の生き方ではない。だから苦しむ。

 もっと気楽に、そのかわり何かに夢中になって没頭する、そんな人が増えてお互いを支える社会になるのが望ましいと思うし、実際そうなってみて分かるのは、社会は無意識にそうした選択と集中によって支えられている、ということが分かってくる。