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 まぁなんと残酷な話でしょう。私は私の苦しみに答えを見つけ、私の人生にとっての攻略情報を探していたのに。答えを探せば探すほどに「答えはない」ということが見えてくるのです。ひどいです。




■勉強していない時期ほど「答え」が見つかる

 勉強していない時期は、目に映るものが何もかも新しいものに見えます。「きみの苦しみはこうなんだよ」と言われて、あぁなるほどそれはそうだ!と驚く。やったぞ、すごい答えを見つけてしまった。自分の悩みはこうやって解消するんだ。


■勉強すると、自分の偏りに気づく

 ところが見つけた「答えだと思っていたこと」は別の視点から見ると、違っていることに気づくわけです。Aの視点で見れば正解だけど、Bの視点から見るとむしろ違った考えの方が正しいのだと。

 困る。やっと答えらしきものが見つけられたと思ったのに、なんだよこれまで正しいと思ってたこと、リセットして考えなきゃいけないじゃないか。折角悩みの種が消え去ろうとしていたのに。


■本を読むと、ほかの人の偏りの歴史に触れる

 ただそれもさらに本を読み進めていくうちに、勉強していく間に、意見が変わっていく。なるほど、彼の研究・人生にとってはDという答えになったけど、別の人にとってはEの答えになる。別にその時Dを見つけた人もEを見つけた人も、間違っていたわけではない。彼らの人生にとってはそれが正解だった。

 それぞれが少し偏ったことで、それぞれの答えが出た。それだけだった。僕らにできることは、それら少し偏った人たちの軌跡を学び「答えがひとつじゃない」という事実を知る事。


■自分の苦しみの本当の原因は

 こういう風に考えるようになってから、自分の苦しみはじゃあ何だったのだろうかと考える。答えは簡単で「勉強していなかったから自分の偏った考え方だけが染みついていた」ということ。

 自分の理想像以外に人間としての基準を知らなかったから、苦しんだ。自分の偏った基準から考えて、周りの人は自分よりもあれとこれが出来る。出来ない自分はダメだ、と自分「だけ」の価値観で自分を苦しめたんですね。

 ところが自分以外の価値観をたくさん取り入れたことで「自分にとって私はダメだけど、Aの考え方から見ると自分のここは良い点に見える」なんて感じられるようになりました。随分気が楽になったものです。勉強する前の自分からは考えられなかったのです。

 たまに私は相談を受けた時に気軽に「自分を許した方がいい」というような言い方をするんですけど他人の価値観の取り入れもしないままに「自分を許す」っていうのは実はとっても難しいことなんだと最近思うんです。だって他所からの価値観の取り入れをしない限り「自分の価値観以外の価値観」を想像できないから。

 そんな状態で今まで自分の事満足できずにいたのにある日「自分を許せ」なんて言われたって受け入れられるわけがないんですよね。


■ありのままの状態

 たくさんの価値観に触れること、勉強することで、そもそも自分と同じようなことを考えている人も居ることに気づきます。うわ、めっちゃわかるその考え方、というものに出会えたりもします。

 その「うわ、めっちゃわかる」というのが増えてきて、自分がその意見に共感できている状態になって、気づいたことがあります。いろんな人が自分に、悪いと感じている部分を持っていて、どうにかしたいなぁと思っている。

 そういう悩みを持つのが人間で、じゃあ自分が特別何か劣っているわけでもない。今の状態もある意味人間らしい状態なのである。そう思って、ようやく「あるがまま」という自分の状態をなんとなく受け入れられるようになっていった。


■答えはないけど苦しみは消えつつある

 こうやって見ると、私は単に自分の苦しみに麻酔をかけただけなのではないか?なんてことも思うようになっている。変わらない、変われない理由を自分に見つけて着地点を見つけた気になっているんじゃないかと思ってしまう。

とはいえ現在進行形で悩みは続いていたりする。明日よりも少し良い自分になるにはどうしたらいいだろうか、と悩む。でも、勉強してこなかった頃に比べると「苦しい」という部分の悩みは随分と減ったように感じる。

 自分で自分を縛り付けるような自分だけの価値観ではなく、沢山の人の価値観に触れることが私の中に随分と苦しみを減らしてくれた。当時は何か苦しみにはものすごい特効薬があるんだと思い描いていた。でもその時求めていた「苦しみの抜け出し方」とは違った形だけど今私は随分生の苦しみからは開放されつつある。

 それはきっと、苦しみの抜け出し方には単純な答えが無いことを知ったから。答えがないという答えが、今の私には妙に心地よい答えになっている。