20161226

私もデザイナーの端くれとしていつも自分の表現者としてのセンスの無さ、ものの見方に関するセンスの無さなどに軽い失望を覚える。センスのある人のことを嫉妬してみつめてしまいます。私はセンスのない人間。

デザイナーの端くれとして様々なセンスのある人たちと出会ってきました。彼らと自分を比較して何が決定的な違いだったのか。何をすることで多少私は自分自身のセンスを補う事が出来たのか。

半年ほど前から定期的に過去記事「センスの磨き方 凡人はどうしていけばいいのか」がバズっているので、補足の意味合いもかねて考えてきます。



■センスのある人と無い人 センスが身につく人

長く人と付き合っていくと、はじめから何かしらセンスに満ち溢れた人、そうじゃない人と、もう一種、途中でセンスが身についていく人とに分かれていくと感じます。

生まれながらに得たセンスというのは、成長過程で得たセンスであり、これは既にその人そのものを表す個性となる。これがその人個人にとってのオリジナルになる。

私がデザイナーとして普段考える「センス」は、その人がいかに普遍的な没個性的な生活を避けて育ってきた結果、大多数の人が得られなかったものを得てきた対価=センスだと思っている。


■まだ見ぬものを提供するセンス

またセンスとは、普段目にしないものを見た時に人間が感じる美しさ愛おしさ破天荒さなどをキャッチした際に湧き上がる気持ちだと思っている。普段目にするもの、数カ月前1年前程度のものについては人間は既に見飽きるので「センスが無い 遅れてる」などの印象になってしまう。

人間は飽きる、というこが盲点な人が一定数居る。もっとも、飽きるもさらに歳月が流れると「懐かしい ノスタルジック」となり、それはそれで新しい価値の創造になったりもします。今ファミリーコンピューターの本体って、一周まわってセンス良いんですよね。


■特定分野の習熟によって得られるセンス

それとは別に、センスとは彼の周囲の人間よりも彼がはるかに、ある分野に習熟したことによって得られるものだとも思っている。同じ道を歩みながらも、同じ道のはるか先に居るということもまたセンスであると呼べる。

習熟してあらゆるものを知っているから、相手にとって、世の中にとって必要なプリミティブな要素だけを抽出できる。さかなクンさんが選ぶ魚って、どれもセンス良いんですよね…。


■センスが磨かれない人の特徴

だからセンスが磨かれない人というのは、私の観点から考えると
「人よりもある分野において習熟することを行わなかった」であったり
「没個性的な大多数にとっての普遍的な生活を送ってきた」とか
「新しいものの探求をやめて、自分の世界に閉じこもった」とか
そういう自分自身のセンスを磨くことに対する投資を行ってこなかった人が受けてしまう烙印だと思っています。


■センス磨きとは商いだ

結局センスの良いものとは、皆がまだ目にしたことのない価値観の提供とか、既存価値観の組み合わせだったりとか、そういった商いにとっての普遍的な考え方の延長であると思っている。


■「新しすぎる」ということ

しかし僕らがじゃあ30年前の世界に、今ある製品を持ち込んだらそれはセンスが良いと言われるのかと言うと、それは分からない。恐らく奇抜過ぎて受け入れられないんじゃないかと思われる。

センスとは常に過去・現在の流れを見つめながらある程度、見る側が受け入れる準備が必要なものであると感じる。20年前にフラットデザインを出しても、たぶんそれはセンスが良いとは言われない。

バブル期のごちゃごちゃした「盛って盛って盛りまくる」デザインラインを継承して徐々に抜くとこは抜くデザインへと変容し、やがてフラットな現在のデザインの主流へと人々の価値観は徐々にデザインによって慣らされてきた(その反動か、単純なデザインならだれでもツールさえ使えばできるんだろうという考え方が蔓延したのはデザイナーにとっては致命的であるとは思うけど)

6年ほどまえ、iPhoneはある日彗星のように突如現れたような印象だったけど、iphone以前からAppleはipodでシンプルラインのデザインをずっと提供していたし、日本のコンテンツも例えばWiiやDSなんかがシンプルでプリミティブなデザインラインを既に提供していた。結果論ではあるけども、私たちの生活にシンプルで洗練されたデザインが組み込まれていた。やや脱線。


■センスを磨くハードルは日々上がる

センスとは時代の流れをある程度つかみ取る感性が必要とされる。そういうの抜きにヒットした人は「時の人」として消化される。それはあまりに運頼みのリスクが大きすぎる人生となる。新しいものに常に触れ、古くからの伝統にも触れ、そのうえである分野を習熟して、となかなかハードルが上がるかもしれないが、現実的にセンスがある、というような状態になるにはやはりある程度敷居が高いものになる。

この辺、昔はある程度覆い隠されていたのだが、学習や考え方による習得方法というのはガンガンシェアされてずいぶん昔と考え方は変わってきていると思うから、ますます生半可なセンスだけでは「いいね!」にはならず、ふーん、で終わってしまう。クローズな領域が減ったから、やろうと思えば昔よりもなんだってやってやれる時代になったのだと思います。


■人からセンスを借りる

こうなってくると既に勘の良い人は気づいていると思いますが、一人だけで考え抜いて誰とも被らない自分だけのセンスを探求するのと、多くのそこそこセンスを磨いてきた人たちのセンスをとりまとめる人になるか、このどちらかの能力が今後は求められる。と、私は思っています。

キングコングの西野さんとか、ポンコタンの村上隆さんとかは、自分のセンスに他人のセンスをミックスして、一人では生み出せない作家性を世に提供していました。センスを求められる仕事というものの生き残り方が大きく変わってきているような気がします。

また若いアーティストの方々は、子供のころから既にアーティストとして吸収する下地を、今の30代40代の人たちよりもより良く作り上げてきているように思います。なので、昔から言われてることですけど、やっぱり若い人が既存のセンスが根付いた場所に新しい時代を作るんですね。

■若い世代と張り合わず

そこはもう年取った人たちはついていこうとせずに、譲るとこは譲って、自分たちもまた得てきた経験値を用いてさらに別のステップへと進んでいくことになるのかもしれません。

残念ながら、我が国のビジネスは若者へ道を譲るのではなく、通せんぼして意地でもゆずらないぞ、とふんぞり返るような状態になっている気がしますが。だからこそIT、WEBの分野に活気が移ったのだと思いますけど。

また脱線してしまいました。


■センスのまとめ

10代20代のころのセンスの磨き方としては、体力と集中力を活用して、既存のレールのセンスをがっつり取り込んで学習することにあると思います。この吸収だけでもかなりのセンスを習得することになるのではないかと。

20代後半とか30代くらいの徐々に体力集中力が続かなくなってきた頃合いから、今度はこれまで学習してきたセンスを新結合していく段階に入るのだと思います。人の力を借りるでも、自分のうちにあるものを組み合わせるでも。多くの人は、人の力を借りるターンに入ると思います。

40代50代にもなると、新結合したセンスが極まって自分の全く新たなセンスとなり、そのセンスを生かして更なる高みを目指すもあり、人を招き入れてそのセンスを伝播させるのもあり。

そうして個々人のセンスは取り入れて結合して継承して、という繰り返しなのであると思います。しかし前述した通り、個々人が習得するための考え方などは日々更新されていますから、今後センスの良さを求めるなら、よりとがったセンスを追求する個人となることだと思います。

その中の一つとしては、とがったセンスを集めて一つの力にする、という価値観も浸透してくのではないかなと思うのでした。


■センス無くして商売ができなくなるのではという焦り

結構長くなってしまいました。ここまでセンスがあーだこーだいうのは、たぶん、本格的にセンスのいらない仕事というのがIT活用により駆逐されていくからだと思います。

これからのビジネスは人や企業の信用に基づくようにシフトしていくと思いますし、その一環として、ある分野では誰にも負けない独自のセンスがありますよ、という存在になっていくことは、これからの時代を楽しく生き残るために必要なことなのではないかと、そんな感じが最近はしているのでありました。とりとめもないお話しでした。

センスは知識からはじまる
水野 学
朝日新聞出版
2014-04-18