20161214


よく、昔ワルだった人が改心して真面目に頑張ってます!みたいなのを耳にしますけど、真面目系クズに関する「真面目」はちょっと種類が違うなぁと。

昨日面白いツイートが流れてきた。「努力の原動力が実は恐怖につながっている」みたいな内容。気になる人は私のTwitterのタイムラインを遡ってもらえれば。

自分が何で真面目を装っているんだろうかというのを、久々に思い返すことになり、ちょっとハッとしてしまった。別に得るものの無いただの日記です。


■恐怖心と真面目さ

そもそも私が子供の頃に徹底した真面目さを身に着けたのは、親の精神的圧迫が原因です。詳しい家庭事情は触れませんが、私は母に嫌われており、小学校の頃にお使いを頼まれてはやれ「釣り銭がたりない」だの「頼んだモノが足りない」など言われて責められていました。

反論すると「嘘ついてんじゃない」とか「どうせ盗んだんでしょ」とか言われる日々なのでした。母の精神が不安定な時に、主にそうした言葉を投げかけられました。

小学校一年生。初めてのおつかいでは多少のミスもあるものとは思いましたが、私は結構慎重に言われたとおりのお使いをしたはずだったのですが。それに、子供心に遊びたい気持ちもありましたから、早く済ませてしまおうとして、自分側にも落ち度があったのだとも思います。

門限についても大変厳しく。1分遅れただけで1時間、冬の玄関に締め出されたこともあります。友達との遊びが楽しかったこと、友達が怪我をして介抱していたことなど、色々と説明することはあっても母は聞いてくれませんでした。「約束を破ったお前が悪い」と。


■真面目はコスパが良い

そういう経験を積み重ねてきた結果私は「理不尽な事に対して言い返すことは無駄」「真面目に黙って従っていた方が楽に生きられる」「息を殺して良い子にしていた方が他人が得する」という知見を得たのです。

私にとって「真面目」とは「恐怖や悪意」と戦うための手段なのでした。処世術であり生き残るための知恵であり。子どもの頃から染み付いたものなのでした。


■真面目系クズ、爆誕

だから残念なことに「真面目を装う努力」は人一倍してきたのです。私の「自発的な努力」というリソースは全てそこに割かれてしまったのです。

それ故、普通の人が頑張れることは全て環境に依存しなきゃいけない。当たり前に出来ることが出来ない。でも真面目さを装うことが出来る。

だから、まじめ系クズ、なのです。


■利用したい、この気質

誰かに慰めてほしいわけでも、同情の言葉が欲しいわけでも、誹謗中傷かかってこいというわけでもなく。ただ「表面上真面目」という人の精神構造が、どういうものなのかの例の一つとして、ネットの海に放流するのもいいのかなと、ふと思い筆をとりました。

今はどうにか、見た目や雰囲気としての真面目さを武器にするにはという方法で考え、日々模索しているところです。

一時期は無理やり治そうとしましたが、既にこびりついた油染みみたいなもので、数年単位で簡単に治せるものじゃないし、治そうとするほうがダメだと思ったので、そんなことにリソースを割くよりも、自分の出来ることをもっと伸ばしていくべきなのだと。

時間を無駄にしたようにも思うし、治そうともがくことで見えてきたものもあったし、トータルで考えてこれから良くしていけばいいのだと、そう言い聞かせることにしました。いつまでも足踏みもしてられませんから。


■これからも、恐怖と真面目さは続く

さて、そんなわけで真面目さと恐怖というのは結構、結びつきの強いものだと思います。私はメディアなど情報発信者、それに付随するユーザーなどが、日々不埒な人々を抹殺してやろうと言わんばかりに叩き伏せている様子を見ていて、不安に思います。

また誰かが窮屈な空気を作って、それに便乗して正義を発散して。とっても生きづらい空気が生まれていくなぁと。モラトリアム、ゆとり、真面目系クズ、次はどんな言葉で恐怖を蔓延させていくのか。

そうならないために自分は何が出来るのか。そんなことを考える日々なのでした。