「毒親」という文字を意図的に入れてます。悲しみが何日続くだとか、実際のところ心にぽっかりと大きな穴が空くなどのセンチメンタルな内容ではないです。毒親としての家族が一人死ぬというのがどういうことかの情報整理です。とくに毒親タイプに苦しんでいる人には。

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■私の育ての親

 私はいわゆるおじいちゃん子というものに部類されるもので、高校進学前頃までは父親よりもむしろ祖父母が親だった感じです。


■19歳の頃、他界

 最近の記事でもチラっと触れたのですが、祖父は私が手術で入院して退院の日に亡くなりました。正直あんまり良い育てられ方をした記憶がなく、実際の暴力や、言葉の暴力に怯えていた日々の方がフラッシュバックするような感じです。

客観的に見れば「お前を育ててくれた人に何てことを」と思われるかもしれませんが子供の主観から見える世界が地獄ならば、主観にとってはそれが真実なのです。


■死んだ直後の感想

ふーん。そうかそうか。


■火葬場で最後のお別れの時

祖母号泣。父も号泣。周りも号泣。
私は周りのテンションについていけず焦る。
ヤバイ、あんまり悲しくない。
むしろホッとしてる。
あれ、自分てこんな変な人間だったのか。


■死が教えてくれたこと

・人は必ず衰え、死ぬ

どんなに横暴な人間でも、清廉潔白な人間でも、平等にやっぱり死ぬ。いつか死ぬ。自分のやっぱり死ぬ。死ぬから、たとえ目の前の人に苦しめられたとしても、いつかそれは終わりがあるのだと分かった。永劫に思える辛さも、いつか終わるのだとなんとなく思えるようになった。

よく人は30代ころから価値観が変わるとされます。それは、家庭を持ったり人の死に触れる機会が増えてくるから。祖父母の死。早い人は親の死。私は早い段階でその経験をさせていただきました。


・人は死ぬが、消えない

私の中の記憶に、横暴な祖父の姿は今も鮮明に写っていますし、実家に帰れば遺品はあるし。祖母が思い出話もするし。墓も勿論ある。人は死んでも、その人の存在は消えない。

それは時に人を癒やし、時に人を苦しめ。まるで亡霊のよう。その人の主観の世界は死んだとしても、その人そのものは関係者が全員死ぬまで生き続けるし、その人がもし世の中に大きな功績を残したとしたら、その存在はずっと生き続ける。多くの人に影響を与えた人の存在は長く生き続ける。

人が死ぬことで、その人の存在が消えることではないという当たり前のことは、しかし私の中で何か考えさせられるものになりました。


・死だけが相手への想いの強さを測る本質かもしれない

私はやはり祖父に苦しめられた思い出ばかりが強いので、今思い出してもやはり涙の一つも出ない。流石に年齢的に理解に努めようとはしてみるものの、客観的には理解できるのだけど、やっぱり私の中の主観は地獄であったことに変わりない。

だけど祖父の死は多くの人がそれぞれ悲しんでいたよう。意外だったのは、父親。父は私から見ても祖父とは犬猿の仲で、会えば憎まれ口を叩き合うし、基本的に二人が同席する場は重苦しい場だった。だけど祖母よりもむしろ父の方が泣いていた。

葬式の後の深夜。みんなが寝静まった中で一人祖父の棺桶に向かって嗚咽を漏らす父の背中を見た。父は喪主として、皆の前で毅然とするために涙をこらえていたのでしょう。

正直私も、祖父の死でいくらなんでも流石に涙でも流してしまうかと思ったのですが。本当に悲しさが込み上がらず。ただただ、周囲の悲しみに乗れない自分の心の寂しさに打ちひしがれたのでした。私も別に感受性は無いわけではなく、泣くときは泣くんですが。赤の他人の大尊敬している人が死んだ時はめちゃくちゃ泣きました。

そんなわけで人の他者への本質的な想いは、その人と今生の別れを迎えた時にのみ見えるのだろうと思いました。


うーんこうして並べると当たり前のことばかりですね。


■毒親に苦しむ人へ

 いつか死ぬから(直球)気楽に頑張ろう。 でもなるべく早く独り立ち出来る準備をして、家から抜けだそう。

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)
スーザン・フォワード
講談社
2001-10-18