20160823

セッション(字幕版)



 「セッション」という映画を勧められて見てみることになりました。尚タイトル通り、映画内容のある程度核心になる部分まで触れた記事になります。普段の記事の趣旨とは違いますが、是非とも記録しておきたいと思いましたので。


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■とんでもない映画を見てしまった…

 映画自体はおよそ100分ほどの内容。映画の宣伝としてラスト9分19秒からの展開をやたらに推してきていました。結果は期待以上のものでした。終始口が開きっぱなしで、ただただ目の前の映像にのめり込む状態。こんな経験は最近だと2回目(1回目はシン・ゴジラ)の経験でした。

とんでもない映画でした。


■登場人物

端的に言ってこの映画の登場人物は二人

・ニーマン…本作の主人公。誰もが認める最高のドラマーになる事が夢の若者。

・フレッチャー…本作の主人公その2。指揮者であり、血も涙もない鬼教師。

他にも登場人物は勿論多数存在するが、そもそも他の人物たちは二人にとっての舞台装置としてしか機能していない。


■映画の印象的なシーンについての掘り下げ

 まともな映画レビューはそこら中に溢れかえっているから、その辺りAmazonレビューなりyahooユーザーレビューなりを見ると良いと思います。

なので私は創作畑に足を漬けている観点からこの映画の印象的なシーンについて網羅してみる次第です。


■ニーマンの幼さと承認欲求の物語

 映画冒頭、ニーマンとフレッチャーが初めて出会うシーンがあります。ニーマンはドラムを叩き、フレッチャーがそれを評価するというもの。フレッチャーはたった数秒、ニーマンのドラムを聞き、時間を無駄にしたと去っていきます。

それから、フレッチャーはニーマンを自分のクラスに招き入れます。フレッチャーのクラスメイト達は皆、彼の強烈なしごきを乗り越えてきた猛者達。そんなクラスの中で彼はニーマンに早速ドラムを演奏させる。緊張するニーマンにフレッチャーは言います。

音楽は好きかね?

頷くニーマンに、フレッチャーは笑顔で背中を押します。そして、ニーマンは彼の指揮のもと、全員の前で彼の演奏を完膚なきまでに酷評。悔しさからニーマンは猛特訓を始めることに。

物語は簡単にいえば、ニーマンがフレッチャーの凄まじいまでのシゴキに耐え、乗り越え、自信をつけたところに、更に凄まじいシゴキを与え人格を否定し、またその悔しさからニーマンが不屈の精神で乗り越える、というものです。そしてその果てのラスト9分19秒へと至ります。

では「貴様は無能なゴミ野郎だ」と罵られ続け、人格も否定され、人種すらも否定され(彼の家系はユダヤ)、それでも尚ニーマンがそこに抗い、乗り越えようとするのは何なんだろうと。

それはまごうことなき、ニーマンの精神的幼さから来るフレッチャーに対する承認欲求であり依存。
ニーマンの幼さは各シーンで象徴的に描かれます。クラスの仲間の譜面を紛失、自分のスティックを忘れる、目の前の事のために平気で彼女を傷つけたうえで別れる、フレッチャーが珍しく落ち込んでいる時も自分の事ばかりを主張する。とにかく視野が狭い。明らかに見ている側に不快感、そしてニーマンの異質さを演出している。自分が認められること、自分が大成することだけを考えた人間がニーマンであります。

劇中で、ニーマンが親族と食事をするシーンがありますが、彼の家族形態が片親でかつ、親族に音楽の道を否定されニーマンに味方の居ない状態であることが描写され、ニーマンが歪な承認欲求をこじらせてしまった原因が垣間見えます。

また同時にニーマンは自分自身が周りよりも劣っていることを自覚しており、かなり自身へコンプレックスを抱いており(フレッチャーに追いつめられたことにより更にそれを自覚する?)彼の人生のテーマ自体が「無能な奴はロックをやれ」にある意味集約している。ちなみにフレッチャーはジャズを教えてます。

童心より続けていた好きだったはずの音楽は、彼の承認欲求を満たすためのツールになっていったのです。


■ニーマンの変化

 ニーマンは劇中で、温和でマイペースでどこか垢抜けない様子の青年として描かれますが、物語が進むに連れてどんどん激しい気性になっていきます。フレッチャーの鬼っぷりが乗り移っていくかのように。この辺、付き合う人間次第で人は変化していく様が描かれているなと。


■フレッチャーがニーマンに見た「才能」

 フレッチャー教諭は、一人の才能のためなら大勢の人間を踏み潰してでも開花させるべきだというスタイルです。フレッチャーがニーマンに才能を見出すシーンは、私個人として感じているシーンがいくつかあります、

まずクラス編入前のクラスでニーマンにドラムを叩かせた際。彼はフレッチャーに対して少し伺うような視線でドラムを演奏しました。つまりこの段階で彼の承認欲求を見抜くわけです。次に、フレッチャーのクラスで初めてドラムを演奏するニーマンに対し、彼はニーマンの家族構成や家族仲、ドラム歴、ドラムに対する思いなどを聞きます。

フレッチャーは彼の音楽センスには何ら期待しておらず(それでも子供の頃からドラムを続けていたから人並み以上の腕はある)それよりも彼を構成する要素に才能を見出したのだと思います。

ニーマンが、承認欲求に飢えている事。才能のない人間が大成するには激しいまでの承認欲求、欠けた人間性を補うためのコンプレックス、等々。その彼の環境そのものが才能だと嗅ぎとったわけです。

これらのシーンはかなり序盤なのですが、私にとってはかなり印象的なシーンでした。


■全てを失ったニーマン

 映画後半で、ニーマンはフレッチャーと衝突し、その衝突により大学を中退します。フレッチャーもまた、大学を辞めることに。そしてニーマンは音楽を捨てる事に。親族も学校もフレッチャーも、誰も彼と音楽についてを認めることはなく、音楽に全てを注いだ彼の前に広がるのは虚しい人生。

そんな折、彼はフレッチャーに出会います。…そして彼は、再びドラムを始める。フレッチャーが出場するコンクールでドラマーとして。いつの間にかニーマンはフレッチャー無しに音楽と付き合えなくなっている。泥沼の中にフレッチャーという光を見つける。狂った主従関係。師弟関係。

音楽人としての彼の人生は他者(フレッチャー)が主体であり、彼の人生は最早彼のものではなくなっている。音楽を再開した事に勢いづき、一方的に別れを突きつけ二度と合わないとまで言った彼女に連絡をする一連の流れは虚しさと狂気が錯綜しています。彼はもう取り返しの付かないところまで狂ってしまっている。その自覚が無い。


■ニーマン対フレッチャー 憎しみと憎悪の殴り合い

 さてここからラスト9分19秒。ネタバレなのでご存知の通り、ニーマンはフレッチャーからおそらく音楽人として最低最悪の復讐を受けます。ここは詳しくは語らず。

茫然自失のニーマンは父親に抱擁されますが、その抱擁を振り切り、彼はフレッチャーへ更なる復讐を行います。彼が全てのしがらみを捨てた瞬間でありました。

ラストのニーマンとフレッチャーのシーン。色んなレビューを見ていて感動的な師弟愛だとか伏線だとか書かれてますが、私はそんなふうには感じませんでした。というかフレッチャーに微かな希望を見出そうとするのがそもそも間違いで、彼は完全なサイコ野郎です。自分の生徒の自殺も美談にして陶酔に浸る生粋の自己中サイコパスです。

物語ラストは、ただただ、ニーマンとフレッチャーが互いに自分の人生を奪った憎悪すべき相手に屈辱を与える恐ろしい憎しみのぶつけ合い。

ニーマンはフレッチャーのジャズの舞台を自分のロックで潰しにかかります。「貴様の目玉を抉り取ってやる」というフレッチャーの脅しは、更にニーマンを高みに連れて行こうなどという愛ではなく、自分のステージを台無しに、自分の人生を台無しにされた憎たらしい目の前のクソッタレのガキに対する悪意。その悪意を指揮者から指揮を奪うという悪意でニーマンはぶつけます。

それは最早、狂人と狂人の醜い殴り合いであり殺し合い。
だけども、その恐ろしいまでの殺し合いが、ただただ美しい。
その殺し合いの刹那、二人は互いを認め合い、二人だけの空間が生まれる。音楽の神が降りてくる(スポーツ選手のゾーンみたいなもの?)おそらく二人が「バードの逸話」の境地に辿り着いたのでしょう。
10分間の末、映画はクレジットロールへ突入。

監督が撮影当時28歳であり、彼の実体験をベースとした映画との話なので、この映画の結末はその後の彼の人生がどうだったかを調べるのが良いのかもしれません。


■凡人が、決められた道を後追いするということ

 天性の才能が無いと分かった時。それでもその道を極めたいのだと思った時。凡人はこの狂気へと足を踏み入れなければいけないのかもしれないです。作られた道、既に多くの先人が居る道を辿り、それでも凡人が名を残すというのはかくも狂った道のりなのかと。100キロ先を既に走っている人に今から同じく走って追いつくなら、歩く暇も寝る暇も無いわけですよね。


■矛盾を抱えた映画

 ネイティブアメリカンの教えでは、木は一つ一つにゆとりを与えられたスペースで育ったものよりも、多数の木がせめぎあった中で育つ木が遥かに力強いものであると言われ、それは人間社会においても変わらない真理であるとされています。

では社会としては、そうして抑圧されながらも多数の人を踏み潰し這い上がってきた者が、成功を勝ち取る。しかし彼らは往々にして既に常人の社会には生きられず、狂気の間に立つ事になる。

ある種それは今のアメリカ社会を象徴したようなテーマであり。しかしその成功の華々しさよりは、虚しさや代償、他者よりも秀でてのし上がる文化に対する肯定と否定が折混じった矛盾の葛藤のような映画と思います。

だからニーマンとフレッチャーの関係性や物語の結末は掘り下げること無く。ただ、狂人と化した二人を見守りながら、物語は終わる。


■なんだこの映画

 ホント、なんだこの映画。アーティスト系の道を進んでいる人は見て損はないと思いますし、「そうした道の一種」を客観的に鑑賞する映画としても面白いと思います。

「そうした道の一種」と表現するのは、そもそもコレは多分「音楽の才能は無いが、成長する才能を持つ人間」と狂人との物語であって、ちゃんと才能のある人は別の道は山程あると思いますから。

でもまとめると、超オススメ映画です。

何より私の解釈がどうのではなく、ここまで語りたくなる事自体が、この映画の素晴らしさなのだと思います。
 

セッション(字幕版)
マイルズ・テラー
2015-10-21