性格や育ちのおかげか、感情表現が非常に苦手な人が居ます。はい私です。でもなんぼかマシになったと思ってます。多分。昔はホントにダメだった。どうやって修正かけたのかを考えてました。

処世術って偉そうなものでもないとは思いますが。

■目次

・感情が出せなくなったきっかけをたどる
・たまらん 生きづらい
・感情表現を処世術として考えることに
・自分が「感情」に対して抱いていた嫌悪感が緩和された
・かつて「感情」を出す事が苦手だった自分へ何か言えるなら



■感情が出せなくなったきっかけをたどる

 はい。自分の場合は両親がとにかく酒に酔って感情的に暴れたりストレスで感情的になって暴れたりするのを見てきました。

なので感情を吐露するのがとても醜いもので、フラットでいる事の方が正しいんだな、なんて子ども時代を通過してきた結果、大人になっても「ここは笑うべきなのだろうか 笑ったら嫌がられるだろうか」とか「一緒に悲しむべきなのだろうか 悲しまないと怒られるだろうか」とかいちいち一線を引いて周囲を見ておりました。

中二病だと言われればそれまでですが、この気持は分からない人にはまったく分かってもらえないのですよね。分からないほうが幸せだと思いますが。

というわけで自分の場合は「感情を相手に見せることで醜いあの人達のようになりたくない」という負の感情部分が大変強かったのだと分析できたわけです。感情を出すことに一々許可制を自分自身にしいていたわけです。はい。

だからその分一人の時はよく笑ったり泣いたりしてる自分がいたわけです。はい。


■たまらん 生きづらい

 なんとなくそれで出来上がった顔は「いつも冷静でフラットで真面目な人」になってしまったわけです。でも感情を出さない事で貯まるストレス値がハンパじゃない。嫌だと思う時に嫌だと怒りたい。笑いたい時に笑いたい。でも感情を表に出して嫌われたり笑いものになったり侮蔑されたくない。

自分の中の価値観がズブズブと自分自身を殺してゆくのでした。


■感情表現を処世術として考えることに

 しかし人と人とを渡り歩くのは社会に出れば多くの人が避けて通れない道で、自分も例外ではなくそうだったわけです。

そこで何度も失敗しながら「まじクズ君なに考えてるかわからないねー」とか言われ続けて、ふと自分の中で思ったのは「別に自分が感情表現できないからああだこうだ悩むのは間違いだ」ということ。

自分が楽しいから笑うんじゃなく、周りが楽しんでる自分を求めてたり楽しい空気を求めてるから「笑ったほうが皆楽しい気分になりそうだな」という考え。悲しむのも、自分の悲しみはどうでもよくて「誰かが一緒に悲しんで欲しがっているのだろう」と思うから悲しむ。

こう考えることにしました。


■自分が「感情」に対して抱いてた嫌悪感が緩和された

 私の嫌悪感は、かつて両親が見せていた「自分の自分のためだけの感情の爆発による衝突」がたまらなく嫌だったわけです。でもそれを誰かのため、何かに役立てるため、感情を使うって考える方向にシフトしてみると少し気持ちが楽になりました。

私にとって「感情」は嫌いなものだったのに、それを出したくてたまらない自分が居たから、自分の中で矛盾が生まれて葛藤していた。その制限が解かれたわけでした。親の呪いはこうして排除されたわけです。
 



■かつて「感情」を出すことが苦手だった自分へ何か言えるなら

 自分が自分がと、自分の事ばかり考える感情は自分が子どもながらに感じたようにやっぱり周囲から見ても良くない。だからこの感情はひとりきりの時に存分に爆発させるのが良い。

一方で誰かのためを考えて使う感情は、結局そのおかげで周囲の雰囲気が和んだりするものなので、こういう感情の使い方が大事なのだなと。

楽しいから笑うんじゃない。笑うから楽しいんだ。

なんて言葉がありますが、これは本当に真理だなと最近になって改めて思うのでした。そして、皆割とその辺、意識してる人は当たり前にやってるんだなーというのも分かりました。まだまだ人生勉強でございます。

自己表現のためではなく、他者とのコミュニケーションのために感情をもっとうまく活用できていけばいいなぁと思うのでありました。