他人に迷惑もかけずに、嫌なことや理不尽なことがあっても怒鳴ったり散らしたりせず我慢してるし、言われたことだってちゃんとやっているのに。なのにどうして、どうして自分ばかりが不幸になるのか。どうして、どうして。

というように悩んでいた時期が長く、そういえば最近はすっかり考えなくなったなぁ、と思ったのでちょっとメモです。

■真面目に生きているのにバカを見る

 世の中を見渡せば、真面目な人がバカを見るような出来事が日々起こっているように思います。

超どうでもいいことで言えば、例えば列に真面目に並んでるのに友達を後で何人も合流させてる人が居たり、問答無用で横入りしてきたり。大きなことで言えば横領だの裏金だの賄賂だの。社会にルールがあるのに何故それを破る人間ばかりがおいしい思いをしているのか、と。

まじクズは激怒した。まじクズには政治がわからぬ。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
(どうでもいいですけど走れメロスってセリヌンティウスがただただ被害者で聖人という怪奇な物語ですよね)

ともかく、真面目に生きているのに、ルールを順守しない人たちの悪行のしわ寄せが何故か真面目に生きている人たちに及ぼされるという事態が私にはそれはもうやるせなさでいっぱいだったわけでございました。


■ルールはそもそも、作った人にとって都合の良いものになっている

 政治は分からぬが、なんともかんとも上手くいかないものだから私もムキになって色々と調べるようになったわけです。どうにも生真面目にやっているのに仕事も私生活も何もかもが上手くいかない。挙句クズだなんだのの烙印さえ押される始末。

そんな折にこんな記事に出会う。

人生のゲーム:島国大和

世の中には5種類の人間が居る。

 ルールを知らない奴。
 ルールを守る奴。
 ルールを破る奴。
 ルールの裏をかく奴。
 ルールを作る奴。

 書いた順番に弱い。

ルールとは作った側にとって都合の良いものであると。そこから真面目って考え方はそもそも何なんだろうということを考えだすわけです。成人を迎えた人間が今さらこんなこと考えるなんて、随分と間の抜けた話だとは思いますが。


■そもそも自分が認識していた真面目とは何だったのか

 規則や法律を守り、他人に迷惑をかけず、目の前の事に一生懸命に取り組み、人の悪口も言わず、上から言われたことを着実にこなし、反抗せず、礼儀正しく、酒タバコはやらず、暴力は決して振るわず、感情的にならず、勤勉で、大人しく・・・みたいなもの。


■何故こんな“真面目”なんて認識がそもそも作り上げられたのか

1.親の教育
2.親から派生する生活環境
3.学校
4.テレビ等メディア

私も今になって思えばなんでこんなことを当たり前に考えて飲み込んでいたのか、まったく意識が無くただしいていえば「なんとなくそういうものらしい」という刷り込みが行われていたわけです。

でも成長過程で、友達は不良化する奴もいれば不登校になる奴もいたしイジメようとしてきた人もいましたし。私は私が思う真面目で良い人間で居るつもりがどんどん周囲に馴染めず。私の認識するルールから逸れる人間はどんどん楽しそうな世界に飛び込んで行き。

一方で自分は真面目さとはなんたるかを知ってはいるもののなかなか全てはこなせず辛くなって時にゲームに逃げたりしているうちに更にダメになってプライドばかりが高くなっていって失敗が怖くなって行動も出来なくなっていって・・・という状態に陥ってました。


■どうして自分だけがこんなに不幸に

 ただ真面目に生きていたはずなのに。言われたとおりに生きてきただけなのに。いつの間にか「自分で考えない」だの「無責任」だの「個性が無い」だの。なぜ、そんな言葉を浴びせられるのか。言われた通りにしてきたのに。それが良いって言われてきたはずなのに・・・。はず・・・なのに・・・。自分が甘いせいか。努力が足りなかったせいか。そうかそうか。


■ああ、そうか

 こういう人間が、使いやすいし、騙しやすいし、いざとなったら勝手に落ち込んで、ふてくされて、世の中を勝手に恨んで、周囲に憐れな眼差しを向けられて、勝手に死んでくれて、都合が良いわけだ。

そうかそうか。

なんて自分はバカだったんだ。私は真面目なんかじゃなく、ただルールを作った人たちにとって便利で使いやすいパーソナリティを得てきただけに過ぎなかったのか。


■ステレオタイプの真面目な人じゃなくて、自分の人生に真面目になろうと思った

 私はその時になってようやく自分が自分の人生を生きているわけではなかったのだと気づき、ずっと自分で何かを選択していなかった事に気づき、そんなことすら意識できないまで自分で自分を洗脳していたことに気づいたのでした。


■真面目なはずなのにで苦しんでる人におせっかいで思うこと

 もしかしたらその真面目さは、知らず知らず誰かが貴方に押し付けたものを自分の価値観だと思い込んでしまったものかもしれませんです。何が正しくて何が違って、とかそういう判断は「周囲や世間にとって」じゃなく「貴方の人生にとって有益かどうか」で判断するのが良いと思うのでございます。


■自己洗脳の揶揄として読む、ハンターハンター



 HUNTERXHUNTERという人気マンガにて、主人公の友達で暗殺一家の三男・キルアという登場人物がおります。(そういえば休載がまた決定してしまいました。残念。個人的に昨今発刊されているあらゆる漫画の中でトップクラスの作品だと思ってます)

彼は天才的な暗殺者としての才能がありながらも自分の行動に大きく制限をかけていました。「自分にはゴンと友達になる資格が無い」とか「アニキには絶対かなわない」とか。

キルアは作中で度々危機的な場面に陥った時「お前には無理だ」という洗脳の言葉を受け、逃げだしてしまいます。

これは結果的にキルアの兄がキルアに対する洗脳処置を施しており、それを頭蓋骨に埋め込まれたチップとして表現しました。このチップをキルアは自分から取り除く事により、兄にからの呪縛、それ以上に自分に限界を決めていた自分自身からキルアは逃れることが出来ました。

作品としてわかりやすく「脳にチップを生めて自分の限界を決めつけさせる呪縛をかけていた」という表現になっていましたが、はてこれって、実は自分の中に無意識にルールを作ってしまっている人もやっているのではないでしょうか。

「真面目とはこういうものだから、こうしなければならない」なんて。

私は自分に激しく行動制限をかけている事に気づくまで、何度も経験したことがあります。それを破る事を考えた時の恐怖、焦燥、震え、悪寒、頭痛、萎縮、逃亡、心臓の痛み、思考停止。

その真面目さは本当に自分のための「真面目さ」になってるんでしょうか。無意識の呪縛になっていませんでしょうか。




■生きているだけで迷惑かけてるし、誰かに嫌われるし、不幸にも幸運にも出会う

 自分を萎縮させるための「真面目さ」なんて何か価値があるのでしょうか。生きてれば自動的に誰かに迷惑もかけてますし、勝手に嫌う人も好いてくれる人も居ますし。

誰かに与えられ、いつの間にか自分を洗脳している「真面目さ」に苦しむよりも、もっと大切な自分の人生に逃げずに「真面目」に立ち向かう方が遥かに優先することでございます。

そんなわけで世の中には「ルールの上での真面目さ」が今日もどこかで発信されておりますから、気をつけようーというお話でした。

でも別に真面目な事自体は悪い事じゃないと思ってます。真面目な人は信用されますし、真面目さって立派な武器なのですから。別にルールを破って他人に迷惑をかける心の貧しい人になろうって勧めではないわけでして。

真面目さを悲観することなく、武器として利用するくらいの気持ちがベストなのではないかと思うのでございました。