141129
出展:いらすとや

突然ですが、祖父が亡くなってからはやいもので13年。
13回忌が今年あるという話を受けて、ふと祖父ってどんなだったかなと思って振り返ってみることに。



■まえがき

私の記憶がある5歳くらいから、祖父が亡くなった私が19歳の頃までの記憶をベースとしております。
ちなみに簡単に説明すると、私はおじいちゃん子というやつで、祖父母に育てられた経緯がございます。ですのでその前提で読んで頂けますと幸いです。


■働いていた頃の祖父の1日

祖父は痩せ型高身長で、感情の起伏が激しい人でした。気性が荒いとも言えました。その起伏の激しさは時に内外へ向けられ色々と困ったこともありました。私が感情の起伏を今でも極力抑えようとするのはこの祖父を反面教師にしていることもあります。

さて祖父の1日は、朝7時半に起床し、祖母の朝ごはんを食べる。番組は必ずNHK。他の民放は絶対見ないし見たら「こんな低俗なものを見るな」と激しく怒られました
おかげで小学生の頃私は友達の朝の民放番組の話題にさっぱりついていけなかった。
まともに民放を見れるのは、学校から帰宅してから祖父が帰宅する8時までの間数時間だけでした。
そうそう、祖父には変わった日課がありました。それは、コップ一杯の牛乳に卵を一つ入れ、醤油を少し垂らしたものを一気飲みするというものでございます。おそらく精力剤のような役割を果たしていたのでございましょう。未だに理解に苦しむ日課です。

話を戻しまして。祖父は朝8時半頃に出社。私が記憶している頃はチェーンのケーキ屋2店舗のオーナーで、どちらの店舗にも毎日顔を出してスタッフの働きをチェックしてました。自分からはあまり接客はしていませんでした。祖母はそのうちの1店舗でスタッフとして働いておりました。
厳密には、2店舗目のオーナーになる前は祖母とふたりで接客してたようなのですが、私の記憶している頃にはすでに2店舗目も担当している、というような状態でした。

そのまま働き詰めて、帰宅は夜の8時~9時。ほぼ毎日食べていたのはステーキでした。モリモリ食べた後は、夕刊の日経新聞を読んだり週間文春を読んだりした後に11時頃には就寝。
日によっては、詩吟や尺八の生徒を家に呼んで、稽古をしておりました。なんと祖父は詩吟と尺八の師範代だったのでございます。子供の頃はその凄さが良く分かっておりませんでしたが、ど社会人の今になって思えば凄いことだなと。

祖父の1日はほぼこのようなルーチンでございました。

ちなみに休日は、今で言うDIYに勤しんだり、庭を改造してみたり、プチ菜園をしてみたりアウトドアに出かけて行ったりと、活発な人でした。

少なくとも欲しいものが買ってもらえないことはあれど、生活に困るような事は経験していないので、一家の大黒柱として優れた人だったのだと思います。


■祖父の過去

当人からは直接あまり話されたことがなく、祖母から聞くことがメインでした。
・一番最初は工場の仕事(ライン工?)で祖母と知り合う。
・その後タクシードライバーに(昔のタクシーの運ちゃんというのはかなりの稼ぎだったそうな)冬に超長距離の客を乗せた後、雪だらけの田舎の山道で遭難しかけたとか。
・その後にとある氷菓を売り歩く仕事をこなす。
・合間に家を建てる。ほぼ自分で建てたらしい。(恐らく大工の人件費を安く済ませるため?)
・それから今度はラーメン屋を経営。儲かったらしい。
・その後、過去の縁で氷菓の関連会社からの声がけによりケーキ屋のオーナーに。

とにかく何でも自分でやらなきゃ気がすまないタイプだったようです。
あとは儲かると思えば直ぐにそちらに鞍替えをする。子どもを養うためには仕方なかったのでしょう。


■祖父の往年

祖父の人生の時間はそういう意味では本当に「仕事仕事仕事、家族のために仕事仕事仕事」というものだったようです。少なくとも私が記憶にある範囲では。とはいえあまり人様に言うようなものではない類のオイタもしたこともありますし、家族で旅行することも本当に稀にありましたし。
とはいえやっぱり常に「仕事」が人生の中心にある人でした。

そんな祖父も65歳で定年を迎えて、ようやく働き詰めだった人生に一区切りがつきました。日がな一日家でのんびりする日々を獲得したのでした。
私が中学二年の中期頃でした。
祖母はまだ定年にはならないので引き続き働いておりました。


さて、祖父が趣味でやっていた詩吟や尺八やらDIYやら、そういったものにこれからより一層励むようになるのだろうか、なんて思っておりました。
ところが祖父は最初の1ヶ月こそ、そういった事柄に取り組んでおりましたが、やがて何をするでもなく日がな1日ぼうっと過ごす日々が増えてきました。

本当にぼうっと、1日を過ごすのでした。

ようやく得られた自由な日々は、しかし祖父の心にポッカリと穴を開けてしまっていたようでした。
気性の荒さも影を潜め、なんとなくぼうっとした人になっていってました。
私は当時高校受験へ向けてかなり忙しくなっており、一方で部活も行っていたのでほとんど家に帰る時間がありませんでしたし、気性の荒い頃の祖父の像がベースとして私の中に存在していたので、なんとなく家に居る時間、居間に居る時間、そういったものを避けておりました。

時は流れ私は志望校へと進学し、勉強やゲームのために自室に居る時間が増えてました。この頃から祖父は体調を崩しがちで、一日中具合悪そうにしている時が増えてました。

やがて、入院。肺炎や内臓の機能低下など色々と複合的な症状が出ておりました。面倒くさくなるので割愛しますが、私の家庭環境には更に変化があり、ますます家に居るのが嫌で高校卒業したら一刻も早くこの家を出て行くのだと決心しておりました。この当時私は人の死に向き合いはじめるという事へのチャンネルが一切合っていなかったようでした。

何度か入退院を繰り返す祖父でしたが、私が高校3年の頃にはすでに家に戻ることは無理な状態でした。

そして1年後、私が自分の手術のために一時帰省し、入院している最中に祖父は別の病院で息を引き取りました。私は術後安静だからということで死に目には会えませんでした。

涙は特に出ませんでした。悲しさもありませんでした。なんとなく「そっか」というのが感想でした。私にとって育ての親の死というのは「そっか」なのでした。薄情なものです。




■祖父の死から仕事を考える

いくつものチャンネルに対する意見は浮かぶのですが、私は今回「仕事一筋だった祖父」という往年について考えることにしました。前置きがとても長くなってしまいました。

私は常々仕事との関わり方とは何なんだろう。昨今叫ばれてるワーク・ライフ・バランスとは何なんだろうかと、言葉尻をなぞる方ではなく自分の中に意味を落としこむために考えておりました。

そうした時に丁度祖父の13回忌が話題にあがり、改めて祖父の「働く」を見つめる事にしたのでございます。

当時、私は働いている頃の祖父の感情の起伏の激しさ、気性の荒さが正直言ってかなり嫌いでした。が、それ以上に私は家で何もしない祖父の違和感が嫌でした。

でも13年経って、それらを見返すタイミングとなり、改めて考える事となりました。

さて、自分が今働いている中で得られている知見や苦しさや楽しさや、その時間を割くことで失った機会、そして得られる賃金など諸々。

少なくとも自分が今「仕事」を中心とした人間関係や自分の体調管理などを行っているのはなんとなく分かってしまっており。じゃあ仮にこの「仕事」が無くなったら、それは自分を構成する要素を失うという事になるわけです。

今楽しくてやっていることも、仕事で疲弊した分の精神的バランスを保つための回避行動になっているだけなのかもしれない。自分の「好き」なんてそんなものなのかもしれない。

そう考えると実は「お金を失うこと」としての仕事を失う怖さよりも「仕事のある日常に対するリズムを失うこと」の方が実はよっぽど怖いのかな、なんて。



とか色々考えていくと、祖父の死が教えてくれたのって実は「仕事一直線だと老年何も無くなる」とかじゃなくて「仕事してる時に得た生活リズムを突然捨てるとヤバイことになる」ということだったのかなと思うのでした。
うーむ。

そう考えると、今の仕事を自分なりに楽しくアレンジ出来る人と、今の仕事を苦しいが生活のためにしゃーない、ってやる人だと後者の人の方が仕事を失うことに対する恐怖がデカくなるのかなと。仕事を無くすと、「辛いけどやらなきゃいけないこと」を他のもので満たさなきゃバランスがとれなくなっていくかもしれないから。

ちなみに祖父の仕事観は「辛いことをやって汗水たらしてお金を稼ぐのが仕事」でした。 

…。

つまりはまぁ…仕事は楽しんで一直線だと良いんじゃないかなーという事を思ったりするのでした。楽しくなかったら楽しく置き換える癖をとにかくつけておく。世の中楽しく見えるようにするのって大事なんだなーって。

そんなことをふと思ったのでした。

そんなことを思うのは、自分が空っぽになりたくないからなんだろうなと、思うのでした。


改訂版 ワークライフバランス -考え方と導入法-
小室 淑恵
日本能率協会マネジメントセンター
2010-03-19