150315
出典:いらすとや


 人間誰しも、やっぱり嫌な思いしたら、影で何かしら言ってしまいたくなる時もありますよね。少しくらいと思って吐き出してしまう時もありますよね。

私はとてもコミュ障で色々人間関係が上手にいかなくて、昔は何かしら悪口とか陰口とかで発散してました。でもチキンだから、そういう憤りを違うなにがしにぶつける。余計なこと言って叩かれたくないので例は出しませんけど。

そんな昔の事を思い返して、あぁなんでこんなこと分かってなかったんだろう…という当たり前の事メモメモ。久々の当たり前シリーズ。心が抉れる思いで。



■批判の性質

 誰かと話している時に別の人の批判言うのって基本的に「共感得たい」ってことなんですね。「○○さんは本当に好き嫌い多くてダメよねー」とかって場合に「好き嫌いしない私を尊敬するべき」とか「貴方も私の仲間なんだから当然好き嫌いなんてしないわよね」とかそういうのを求めてる。

「あいつウゼェ」って言えば「ウザイよなーアイツ」って共感してほしい。「いや、そういうものの見方は辞めたほうがいいよ」なんて間違っても言われたくない。

別に心のなかで思ってりゃいいものをわざわざ口にするっていうのはその先に何かを得たいと思ってるからにほかならないわけですね。


■批判されたらどう思う?じゃない所での想像力の欠如問題

 コミュ障が悪口に対する認識の欠如で問題視する部分は、「人の口に戸は立てられない」だからやめよう、という部分じゃあない。そんなことは分かってるけど、共感得たくてやってるんだから。

そこじゃなく客観的にみて「この人は批判する印象がある、多分私のことも影で悪く言ってるんだろう」というように思われる部分への想像力の欠如。これが問題。

ここに想像力が働かない。


■じゃあ匿名でやればいい?

 というわけでは全くないわけですね。あんまり覚えてる人居ないと思いますけどスマイリーキクチ事件というのが昔ありまして、彼が某凶悪犯罪(口にするのもはばかれるあの最悪の殺人事件)の関係者であるというデマがネットに流れまして。
で、それに対して彼を弾圧する匿名の人々が逮捕されたという話。

これは最も実害的な例なのですが、まぁバレない程度なら…というものではないわけですね。匿名で発散していたってその匿名の性格は現実に対するものの見方に反映されるから、いわゆる沸点低くなったり、何に対しても悪く言うために物事にフィルターをかけるようになっていってしまったり。

自分の行為が自分自身に返ってくるわけです。


■それじゃ批判できないこの憤りはどうしたら

 色々考えたんですけど、批判できなくてイライラしてること自体がおかしい。だって言ったら絶対損するんですから。

じゃ、我慢すればいいかってことでもなくて。我慢すればするほど脳が鬱屈を処理したくて仕方ない。だから人はその鬱屈を大量の快楽が得られる・あるいは処理酒やギャンブルなどに向ける。


■鬱屈とした不満で何か作る

 私が文章書くのも結局のところこれで「こういう理不尽なことがあったから、再発しないようにログをとっておいて一人でもそれを未然に防ぐことが出来ればいいんじゃないかなー」という気持ちで書いてたりします。

事実関係は調べてませんけど、例えばテレビのリモコン。いちいちテレビの前にいってチャンネル合わせるのが面倒で面倒で仕方なかったわけですね。なんでこんな手間をいちいちやらないとけないんだよアホがーって鬱憤が「遠隔操作でテレビを操作する」の開発を促進した、のやも。

鬱屈とした問題って解決方法を考える事で発散すると、良いじゃないかなぁなんて考えたりするのです。


■ナチュラルに批判してしまうのだったら

 会話の皮切りが物事の否定や批判から入る場合は、なにか面白い事探してそれを紹介することから。息を吐くように批判してしまうのだったら、それは多分習慣化してるだけだから、その癖を違う癖に矯正する。

1日一時間絶対に人や物事のいい部分だけを考える時間を作るとか、そういう些細な事から。
批判グセはどっちしろ何の役にも立たない。





■この記事も批判じゃん

 って言われるとどうしようもないのですが、最適な発信方法が思いつかず、記事にしたためた次第です。自分のことを客観的に見るためにも。

そんなわけで批判、特に悪口陰口ははだれにとってもあんり気持ち良いもんでもないですし自分と一緒にいる人にも迷惑かかるしで何の得にもならないので、今後も避けて通りたいところなのでありました。自分への戒め込めて。

あとそういう風な発散をしないことで、新しい道が見えてくるものだったりします。
いやほんと。