出典:いらすとや
突然ですが私は自分の本名がかなり気に入ってないです。詳しくは書きませんがなんというか、非常に子どもっぽくてつらい。子供の頃はまだかろうじて良かったけど、○○(41歳)とか想像するだけで鬱になります。
社長とかになってる人たちってなんで名前がそれっぽいんだろうとか、なんで改名するんだろうとか、色々と話してて気になったので簡潔にメモ。
■子供の頃にあだ名がつけられるかどうか問題
これは自分の過去なんですが、私の名前はまったくといっていいほどアダ名をつける隙がない名前なんですよね。仲の良い友達たちは皆アダ名で呼び合ってるなか、自分だけ苗字。
そんなことどうでもいいじゃんって、思うかもしれないけど子供心に結構辛いんですよやっぱり。面白いアダ名の奴ってそれだけで輪に入って行けてたりしてたので。
■大きくなって、大人になって人前で名前を書くのが恥ずかしい問題
あだ名がつかないダメージを引きずりながら更に小中高と進学するほどに、自分の名前すごく子ども臭いことになんだか恥ずかしい気持ちになる。周りの子らは結構良い名前、良い漢字を使ってるのなぁと。
これが更にあと数十年して60歳とかになっても何か契約書とかを書くときにこの名前なのかぁ…と思うと非常に切ない気持ちになる。
■名前がその人の形になる説
話していて思ったのは、そうやって名前から子どもうちに所属するコミュニティとかも少なからず変わってて、そうした時期に自分が自信を持って育ってきたか、そうじゃなかったかっていうのはすごく大きな問題なんじゃないかと思ったわけです。
■社長やってる人たちはやっぱり名前に風格がある
身近なところだと自分のところの会社の役員とか社長とかを見てて、やっぱり名前が良い。上に登っていく人たちもやっぱり何かしら名前が良い。なんだろう、名前に負けてない。
■友達を振り返る
ふわふわーっとした名前の友人は雰囲気もやっぱりふわふわーっとしてる。堅実そうな良い名前だなーって奴はやっぱり堅実な感じになってる。
言及避けたいけど、世間的にあんまり良くないねーって名前の人はやっぱりその印象の方向に進んでたりする。
■「名は体を表す」という偉大な教え
やっぱり名前の印象って、内発的な自分の感情、そして外部から与えられる印象、それぞれが自尊心を養う環境を生んでいるように思いました。
皆に羨ましいーとか格好良いねーとか言われる名前だったら、それだけで初対面の人間に対してもどんどん自信を持っていく。
一方で、人の名前に自信がなくて案の定変な名前だねとか、あだ名がつかないとか、そういうのを経験してくると、なんとなく微妙な心持ちのまま成長していく。
■名前を変える人たち
芸能人とかは特にそうですね。あとは通名を使い分ける人とかも居ます。古くは木下藤吉郎なんかも後に羽柴秀吉、豊臣秀吉になったりしてますし。野球だったら鈴木一郎も打者で名前表示されるときにイチローの方が良いって思って変えたとか聞きますし。
私、名前ってそんなに重要じゃないよなぁ心の持ちようだよなぁとか色々思ってたんですけど、そうじゃないんだなぁというのが改めて考えて見た時に自分の中で消化出来た気がしました。
それって会社の名前とかもそうだと思いますし。
自分という記号を表現する名が良い名であれば、周りの目も変わるし、自分自身の自尊心にも変化が出る。
■発音と言霊について
言霊って、声に出した言葉が現実の自称に対して何かしらの影響を与えるというものですが、これは実際にあるなぁと思います。スピリチュアルな話ではなくて、つまり発音。
美しい響きの言葉で呼ばれ続けるのと、なんかこう、見下されるような発音になりがちな言葉で呼ばれ続けると、やっぱり自分の意識もそうだし、相手もその発音の影響で無意識レベルで意識を変えるものと思います。これは本当に些細なことだとは思いますが重要だなぁと思います。
ある友人はそれを意識してなのか、意図的に私を呼ぶときのイントネーションを普通とは違う感じに呼ぶようにしてくれていて、とても嬉しい気持ちになります。
ある友人はそれを意識してなのか、意図的に私を呼ぶときのイントネーションを普通とは違う感じに呼ぶようにしてくれていて、とても嬉しい気持ちになります。
■親からもらった名前に文句つけるとか、お前の心をまずなんとかしたらいいよ問題
yahoo知恵袋で、自分の名前に悩んでいる相談者に対してこんなかんじのことが書かれててベストアンサーになっていて、うわぁ…という気持ちに。そういうのって名前で悩んだことがない人が思うこと、あるいはそれなりに自分の中で決着つけてる人の話しだし、やっぱり正論っぽく映るのですね。正直この問題は文化の違いレベルで意識が統一できないものだと思います。自分の名前がイヤな人はやっぱり一定数居るのは事実だと思います。
■せめてネットで使う名前はこだわった方が良いと思うという解
私は「まじクズ」として人と会う時があるのですが、会う度に相手が呼びづらいし、実際に「クズさん」ならまだしも「クズ」だけで呼ばれたらなんかイヤだし。「あぁ違う名前にしておけばよかったなぁ…」とか思いますけどまぁ仕方ないですね、この名前はそういう芸風でいこうと思ってつけたものですから。
かといってじゃあ本名、となってもそちらもイヤなので頭を抱える日々です。
というわけなので、名前はとっても大切だから、親から授かったからどうだとかじゃない視点からも一度考えてみると面白い因果が見えてくるかもしれませんよーってお話でした。
隣の芝生は青い…なんて単純なお話ではないと思うのです。
ご利益のある名前に戒名したい!名前をもう少し変えやすいシステムにしてほしい!
あと、子どもにとって名前って今のような感じに本当に将来に対して大きな影響を与えるから、くれぐれもテキトーな名前じゃなく、しっかりと字画とか考えてつけた方が良いと思うのでした。
いやほんと。
あと、子どもにとって名前って今のような感じに本当に将来に対して大きな影響を与えるから、くれぐれもテキトーな名前じゃなく、しっかりと字画とか考えてつけた方が良いと思うのでした。
いやほんと。
コメント
コメント一覧 (4)
今回の記事も、私が子供のときから悶々と抱えていることを、やっぱり同じ人がいるんだ!と頷きながら読んだところです。
昔、ひすいこたろうさんの「名前セラピー」という本だったと思いますが
それを読んだ時、私が生き辛くなった原因のひとつに、名前を受け入れられないことで
人格形成に歪みが生じたのかなと少し納得しました。
そうそう、名前に悩んだことのない人にとっては本当に“文化の違いレベル”なので
打ち明ける場所なんてないですよね(笑)
今回の記事、私のように励まされた人もいるかと。
今、キラキラネームとか読めない漢字を付けられた人が多いので、今後名前コンプレックスをもつ人は激増すると思われます。
yotumi
家庭裁判所での判例も増えてくると思いますね
そうなると世の中全体が名前を使い分けることがデフォになるのやもです
現在高校生ですが、このようなことに若いうちに気づけたのは非常に嬉しいです。 ありがとうございます。
まじクズさんは何か未来への道を切り開けましたか?