20141212
出典:いらすとや

久しぶりに合った知人達と話しながらとか、最近の自分のテンションとかが積もりに積もってきたのでアウトプット不足だと思って羅列します。



■おっとりとした知人の話

 この間数年ぶりに会った知人。学生時代から知ってるのだけど、記憶の中でその知人が怒っている様子を1度見たか位しかない。(私が認識してる範囲外ではどうかは分からないので主観)

余裕かましてるんじゃなくて、すごく余裕がある。居るだけで、何も喋らなくても場が和む。無理やり定義するならとにかくおっとりしている。

久しぶりに会ってびっくりしたのが、一切のブレが無かったこと。こいつ、まるで変わってない…!

話を聞くと、非常に倍率高くて自分より高学歴とかすごい社会経験してきてる人ばかりの面接で一人だけ合格したとのこと。社長に聴いたら「感覚でなんとなく」だったとか。

すごいなぁと思ってしまった。技術とか学歴とか発達障害とか常にコンプ抱えてきた自分にとってまるで違う世界の話のようだった。

その知人も掘り下げれば結構苦労はしてきてる 。それでもなお、あのおっとりオーラを維持してるすごさは尊敬してしまう。 


■楽しそうで適当な知人の話

 私の自称真面目さと対極にあるような超適当人間の知人。本当にもう適当でズボラなんだけど上手くやってる。学生時代よりも一層適当さが増してた。すごい。

その知人はとにかく適当で楽しそうにしている。なんだかよくわからないけどとにかく楽しそう。不満もガンガン漏らす。その漏らす不満も楽しそう。ネチネチしてない。

掘り下げれば色々つらそうな過去を抱えているのだけど、いつも楽しそうにしてる。楽しい雰囲気を自分で作って常に楽しくなる意識をしてるんだろうと思う。すごい。 

その知人もなんだかこう、私がコンプに思ってるところのまるで外側から今の仕事に行き着いて楽しんでる様子だった。


■最近悩んで気付かされた事

 どうも私はギリギリなジョークが苦手。これはADHDに見受けられる傾向のようで。古いスラングだと「ネタにマジレス乙」を割と実生活でやってしまう。これが、会話でズレを起こした時に辛い。気を利かせて「ネタだよw」と言われない方が後から尾をひく。

奥さんに言われたのが「適当な人のノリに真面目に付き合ってどうするのよ」ということ。あぁ、そうか別に皆が皆真面目に考えてるわけじゃないんだ。自分が真面目だから相手だって真面目に思ってるはずというのがそもそも自惚れなんだ。


■適当力が欲しい

 クソ真面目に取り組むとさきほどの知人に「クズすごいね 俺には無理だわ」とか言われる。いやいや適当にやりながら上手く生きてるお前のほうが遥かに凄い。私は何も凄くないから真面目に勉強することくらいしか人間社会で生きていけないだけだ。という気持ちにいつもなる。

みんな凄い。適当に生きてて凄い。私は「あんな適当な人間になるな」みたいな悪い例を見たりしながら親とかに言われて育ってきたからなのか、どうにもいつまでたっても適当にやる具合が未だ掴めない場合が多々ある。


■真面目にやることによる結果が伴ってない

 私がこじらせる原因は、じゃあ真面目にやったからといっても結果を出せてないこと。だから真面目がアイデンティティになっていることが不安定でしょうがない。というか調べるほどに真面目さというのは大した役に立たないというか自分が苦しいことであると分かる。


■矛盾の葛藤

 もっと適当に生きたい。でも真面目にやらないとならないという血の一滴まで染み付いたような謎の脅迫感が時々ブワっと襲ってくる。保証がないから冒険出来ない。冒険に保証なんてあるわけないだろとはわかってる。トラブルも真面目さとか根性とかで解決しようと考える前に動いてしまう。
骨の髄まで「真面目にやる」というのが染み付いてる。


■良いも悪いも同居するもの

 だからもう開き直るしか無い。住む国地域環境レベルでもしなきゃ性格なんて変わるもんでもないだろうから仕方なくこの真面目さを受け入れるしかない。そう割り切るしかない。


■受け入れられない

 あとはどこまで骨の髄まで割り切る事が出来るか。
しかしまだ何か別の可能性を抱えては葛藤し、悩む。その都度かけられる言葉は「もっと適当でいいんじゃないか」

ああ違うんだ、そうじゃないんだ。そんな100m引いた場所から観察していただいた言葉が欲しいわけじゃないんだ。一緒に悩んでほしいんだ。どうやってその真面目スパイラル考えすぎスパイラルから抜けだすか教えて欲しいんだ。






■その歳にもなってまだそんなことを

 という嘲笑が頭をよぎる。なんでこんな歳にもなってまだこんなことに頭のリソースを割いてるのか。有益なことをやればいいじゃないか。ええ分かってますとも。


■こうして吐き出して客観視して、自分のしみったれさを見つめて分離する

 調子悪いな変だなー、というときにこういうことをすると、たまった膿が吐出されるのであります。別に高尚な人間演じなくてもいいじゃないか。良い時もあれば悪い時もある。悪い時こそ早く吐き出してしまったほうが楽じゃないか。たまに恥ずかしさMAXで嫉妬して卑屈になったっていいじゃないか。

私がログを残しながら学んだのは、恥ずかしいことこそむしろ奥目もなく晒すことの良さ。たまに落ち込むこともある。その時に辛いですわ、と吐き出さないことがどれほど体と心に毒であるか。どれだけ溜め込んだ毒が増大するか。

それをずーーーーっと「適当に生きてはダメだ。真面目に勤勉になるべきだ」と我慢で済まして学生時代から何から過ごしたから徹底した我慢グセやら努力論やら真面目素晴らしいみたいな訳の分からない論理が身についてしまった。
「元気ですよ、私は大丈夫ですよ」というのを見せないことが素晴らしいと錯覚して、元気じゃない自分を必死に否定して自分の首をミシミシと締め付けていた。我慢するせいで顔にも現れてた。
 
もっと自分は恥ずかしくて矮小でどうしようもないクズ人間である。こういうことを定期的に自覚するのに「書く」ことで悪い自分を一旦客観視できるようにするのは大切な気がしました。
(脳内にとどめたまま脳内会議なんて、かなり高度な技術だと思います)

皆さんのたまにいただく叱咤激励によって今日も生きてます。一人っきりのひとりよがりにならずに済んでます。社会に何らかの形で存在してると感じます。ありがとうありがとう。

いやほんと。

特にまとまりなく申し訳ない。
さぁ吐き出した。
楽しもう。


3分で感情をリセットする心の整理手帳
水野 順子
クロスメディア・パブリッシング(インプレス)
2013-06-13