これは久しぶりに来ました。頭をガツーンとハンマーで殴られるような衝撃。私の甘さや歪んだ認識について手厳しく説教を受けた気分になった。読了感は最高だったものの、これからどうやってフィードバックしていこうか悩む事に。

沢山の気付きが得られましたが特に印象に残った内容を抜粋。




■経済は贈与のパス回しで成り立つ

内田 「オレはおまえのためにこれだけの贈与をしてやる。オレに感謝しろよな」って言って渡すような贈り物はあんまりうまく回らないような気がする。あっちからパスがきたから、次の人にパスする、そうするとまた次のパスが来る。そういうふうに流れているんですよ。パス出さないで待っていると、次のパスが来ない。来たらすぐにワンタッチでパスを出すようなプレイヤーのところに選択的にパスが集まる。そういうものなんですよ。

 時間を止めて、社会を輪切りにして見ると、「資源を持っている人間」と「持っていない人間」の間に量的な格差があるように見えるけど、経時変化を動画で流してみれば、「資源を持ってる人」がパスの流れのなかにいて、すごい勢いでパスを通していて、「資源を持たない人」は最初に来たパスをそのまま抱き込んで、それを次の人に出さないので、そこで流れが切れてしまっていることが一望できるはずなんです。

これはビジネスでもまったくおなじ。貨幣も情報も評価も、動いているところに集まってくる。貨幣の本質は運動だから、貨幣は運動に惹きつけられるんです。だから、どんどんパスを出していると、「あそこはパスがよく通るところだ」って貨幣のほうから進んでやってくるんです。



■人間として強くなっていくということは

岡田 人間は強いものに導かれて強くなるんじゃなくて、弱いものをかばうことでしか強くなれない。

内田 まさにそうです。

岡田 生きる根拠がないと悩んでいる人たちは、他人に生きる根拠を与えることでしか、その悩みは解消されない。



岡田 仕事をやる気がない人とか、ニートのお兄さんたちに、どういうふうに働くきっかけを伝えたらいいのか悩んでいたんです。意外なことに、その答えは、その人達が誰かの面倒を見ればいいんだってことですね。



岡田 人間は誰かに贈与するっていうシチュエーションに遭遇しないと、自分が実は「持っている側」、つまり贈与を受けてる側だっていう、へりくだった自覚をすることが不可能だから。



岡田 さっきのペットを飼わせるって話じゃないんですけど、どんな仕組みでもいいから、とにかく経験をさせるしかないわけですよね。理屈をこねる人たち、とくに「搾取されている」って思っている人たちには、自分が下の人たちを支えるんだという自覚を持ってもらうしか無い。
 上の世代は恨んでいるけど、親は恨めないという、彼らの優しさにある意味つけこんで、「親の恩は全部忘れていい。親に恩を返そうという責任感をもたなくてもいい。その代わり、下の世代に返してやれ」と言ってあげるのも一手かもしれません。親の恩を忘れろってむちゃくちゃなんですけど「親のことはもう考えなくていいから」って言ってあげると肩の荷が下りる気がするんですよ。
太陽と北風の話とおなじで、撮ろうとすると相手は余計守ろうとするものですし。どうすればぼくらが太陽のようにふるまえるようになるのか。




■贈与のサイクルを手に入れるには

内田 自分が他人からなにをしてもらえるかより先に、自分が他人になにをしてあげられるかを考える人間だけが贈与のサイクルに参入できる。それはその人の貧富とか社会的地位の高低とはまったく関係がないことなんです。「まずはオレの努力と才能にふさわしい報酬をよこせ、話はそこからだ」という人には永遠に贈与のロジックは分からない。



■評価経済における成長プロセス

岡田 社会人というのはスキル、ネットワーク、そして人柄の三要素からできていると思うんですね。彼はそれを順番に育てていった。まずはシンセサイザーのスキルやキャリアを積んだ。次に信頼できる先輩の仕事をこなすことでネットワークを広げていった。ベースにスキルがあったからコミュニティを築くことができたんです。そして最後に彼は皆に信頼される、好かれる人柄というものを手に入れた。
 贈与経済というものがもし復活するのだとしたら、最後に人柄が出てくるから、やっぱりいいやつという認知が欠かせない。人となりを知ってもらわないと贈与経済は作動しませんよね。スキルもネットワークも大切なんだけど、贈与経済を見据えるなら最終的に「いいやつなんだ」と思ってもらうことが大切だと思います。




■決断力がある人間が本当に勝者なのか?

内田 真の勝者は誰か? よく聞かれるんです。「危機的状況を乗り越えるために正しい選択をするにはどういう能力がいるんでしょう?」とか。でも実は、そんな問をしている時点でもう手遅れなんですよ。AかBのどちらかを選んだら生き残る、どちらかを選んだら死ぬ、というような切羽詰まった「究極の選択」状態に立ち至った人は、そこに辿り着く前にさまざまな分岐点でことごとく間違った選択をし続けてきた人なんだから。

それまで無数のシグナルが「こっちに行かないほうがいいよ」というメッセージを送っていたのに、それを全部読み落とした人だけが究極の選択にたどり着く。「前門の虎、後門の狼」という前にも進めず、後ろにも下がれずという状況に自分自身を追い込んだのはだれでもない本人なんだよ。

岡田 ぼくも講演会で「どうやれば決断力が身につきますか」って聞かれたときに、「決断を迫られてるのはもう負け戦だから」って答えています(笑)

内田 本当にそのとおり! 正しい決断を下さないとおしまいというような状況に追い込まれた人間はすでにたっぷり負けが込んでいるの。

岡田 ダメなのと、よりダメなのしかない状態ですから。

内田 アナコンダに食われるか、アリゲーターに食われるか、どちらがよいですか? というような問には正解がない。 だから、こういうのは「決断」とは呼ばないんです。 正しい選択肢を選んできた人はそもそもうまれてから一度も決断なんかしたことがないんだから。

岡田 これがベストに決まってる、と考えているなら決断する必要なんかないですもんね。

内田 いつも正しい道を行っている人は分岐点っていうものを経験しないんだからね。「前門の虎、後門の狼」とは言わないでしょ。そういう場合に、どちらに進むべきか決断に迷うということはない。でも、正しい決断をするというのは、実はそういうことなんだよね。「こんなのこっちに決まってるじゃん」というのが正しい選択であって、その時には「決断している」という意識はない。

岡田 美味しくはないけど安いカレーと、美味しいけどすごい高いカレー、これは決断力がいりますけど、カレーかゴミかって言われたら、決断力なんてぜんぜんいらないわけで。

内田 サンデル教授に「こっちを選ぶと5人死んでで、こっちを選ぶと1人死ぬ、さあどちらを選びますか?」っていう問題があったけれど、そういう決断をするように追い込まれるってことは「間違った決断」を連続的に下し続けてきたことの結果なんだよ。それは「問題」じゃなくて、「答え」なの。そんな決断しかねる窮地に直面するはるか手前で、そういう羽目に陥らないようにするために、何をしたらいいのかをまず考えなくちゃ。「いざ有事のときにあなたはどう適切にふるまいますか?」という問題と、「有事が起こらないようにするためにはどうしますか?」という問題は、次元の違う話なんです。

岡田 自分の二人の子供が溺れてしまった。男の子と女の子どっちを助ける? そんなことになるなら湖に行くなって(笑)

内田 多分アメリカ人には危機的な状況を「予防」するっていう発想が乏しいんだと思う。国民文化として。「すでにトラブルが起きた」というところから話がはじまる。では、こういう時にどういうふうにふるまうのが適切でしょうか、というケーススタディは実に熱心に行うし、そういうときの反射速度はめちゃめちゃ速い。でも、そもそも「どうすればトラブルが起こらないようにできるか」ということには知恵を使わない。



■評価と敬意の信用

内田 人間はつねに自分に向けられた敬意を感知しようとするセンサーを働かせている。だから、誰かが自分に対して敬意を持っているということははっきり伝わる。それは文章であっても代わらないんだと思う。書き手が読み手の知性を信じているのか侮っているのかは、読めば一瞬のうちにわかりますよ。



■評価と贈与の経済から見た、現代社会の組織図

内田 経験的に言って、生産性の高い、効率的な単機能集団を精密に設計して機能させようとする企てはだいたいうまくゆきません。というのは、集団の達成目的があらかじめ開示されていると、人間は最短時間・最小努力でその目的に達しようとするからです。費用対効果を優先に配慮するから、会議も開かないし、メンバー同士で飲みに行ったり、ご飯食べたりしない。もちろん社員旅行もしないし、ハイキングもしないし、麻雀もしない。メンバーがどういう人間であるか、他人の内面なんか知っても無駄ですから。でも、そういう集団は「いざというとき」にあまり役に立たないんじゃないでしょうか。






■その他気になったことを自分の中に落としこむための文

 特に気になったのが、嫉妬社会におけるパスの回さなさから双方が疲弊しているという話。受け取った話を自分なりに落とし込んでのメモなのでちょっと乱雑になっています。

1億総中流という考え方なんてそもそも20~30年位しか根付かなかった世界史的にみても「異常事態」だっただけ。それをロールモデルとして「老害共ばかりが得して、自分らは損ばかりだ」というような考え方をしてるのがそもそも間違ってる。

そういう考えの人らが年寄りになってようやく資産を築いたら、結局その時になって若い連中に同じことやるんだよ「若い奴らは死ぬほど働け」って。与えることもせず与えられている自覚も持たないで高齢者達に食って掛かってる奴らはその年になったら同じこと言われる立場になるんだよ絶対。

だから高齢者に敬意を払えと、で、老人も若い人に敬意を払えと。金稼ぐことや点数とることや大学出ることや良い資格をとることを絶対評価にしてるからおかしくなる。人は1人でなんて生きていけない。社会や個人が互いに足りないところを補っている。沢山の先代から続く贈与を得て私達の今がある。私達はそういったパスを受けて、更にいろんな人たちに回していく。それが本来の経済の役割。才能なんてものは歴史の贈与があって環境が与えられたから芽生えたもので、その才能は社会に還元すべきなわけですよ。そしてその才能のある人間とを並べて同じ戦いをさせて優劣をつけて、っておかしいじゃん。それで「やっぱり才能ある奴はすごいね」ってさ。

そこに来て昔の家制度よりもはるかに小さな家庭コミュニティで自立できないまま大人になった若い人らが打たれ弱いとかで自己啓発が流行る。ところが「今のままでいいんだよ」「自分らしく」なんて甘言を流布して堕落を商売にする奴らが出てくる。犯罪ですよこんなのは。親から享受してきた贈与を社会に還元するでなく、ありにままでいいとか、パスをつながない。こんなこと許して停滞させて、矛先を先代の人たちに向けさせてどうするんだ、と。

世代ごとにしんどい時期は経験している。それを自分たちだけが不幸だなんて嫉妬して正しく評価されるべきだなんて状態では何も良くはならない。「若者笑うな来た道だ。年寄り笑うな行く道だ」という言葉の中に含まれた惜しみない敬意をもう一度。



■感想

 私達があまりに閉塞的に感じる現状の貨幣経済の未来の無さ、というものに対する変化の兆しというのはそこかしこに現れていて、それが岡田斗司夫さんと内田樹の言葉で明確に表現されている。そこから来るであろう本来の経済のありかた「評価と贈与」の形の未来は確実に訪れるであろう、と。

しかし同時に首をひねることもある。つまり評価されず贈与対象にもならないような人がこの中には生まれることであり、経済全体の流れとしては健全さ取り戻すのかもしれないが、流れに乗りきれなければ死ぬしかないのかということ。

また、現在は親からの贈与を受けずに育ってきた子ら存在し、愛無く育ってきた人たちにとって一体何を与えればいいのだろうという虚無感に襲われる感じもする。今日まで生きてきた社会に人間関係に何もかもに恨みを持って「当り前」として議論されているものの何も持たざる「無敵の人」予備軍にはあまりに酷じゃないかと。

きっとフォローはどうにでも入れれる。この経済価値観も「キュレーター」や「ニコ生主」などの活躍によっても理解できる。各々が資産を保有する時代から「シェア」の流れに向かい、全体がパスを回す構造も理解できる。

それでもそこに所属できるのは、今健全に生きられている人たちだけであり、マイノリティに苦しむ人たちにとっての救済ではないな、と感じた。

新しい枠組みの提唱があろうが私のようなクズがやることは変わらない。ただ学び、己の分際を理解し、落ちこぼれなりに今日までを生かしてくれた社会に寄与するだけでしょうか。
ただ、人間関係で一つ信じているのはミラーリング。言葉や態度は良い面も悪い面も必ず自分に返ってくるものである。何もしなければ返っても来ない。だから、仲間や社会に対して貢献し続ければ、それは必ず巡り巡って返ってくるものだ、というのはモットーにしています。



変化が激しい世の中に対して非常にプリミティブな部分から交わされる議論は大変刺激的でした。受け取った貴方にきっと沢山の気付きや私のように何かを語らざるを得なくなるような、そんな衝動を湧き起こさせてくれる本です。何度読みなおしても良いかもしれません。

いやほんと。