出典:いらすとや
あなたの人生は、誰かの承認を求めることだったのだろうか?
何するにしても、誰かの確認待ちに、誰かの許諾待ち姿勢が続くと、自分で何事も決められなくなるという悪癖です。といっても集団行動で誰の確認も求めず勝手に何か行動するのは迷惑であることには変わりないのですが、極端にその「迷惑」にだけとらわれると、どんな場面においても不利益が生じるように感じます。
■承認待ち癖をこじらせると、自分から進んで行動が出来なくなる
何かにつけて、誰かしらの承認を求めてしまうようになってしまった結果、何が起こるかといえば、「自分の意識で行動することに制限がかかってしまう」ということ。承認待ちというのは言い換えれば言い訳癖にもなるわけです。
誰かに承認を求めるってことは、自分に最終的な責任が及ばない選択を続けるわけですから、自分の行動に対する責任感も培われなくなっていってしまう。
やがて、誰かに迷惑かけることばかりに過敏になってしまい、どんどん自分から行動できなくなっていってしまう。
■無気力人間になる
この誰かの承認待ちを続けることで、やがて無気力になっていきます。何かにつけて、自意識での行動が伴わくなっていくため、自己確立からどんどん遠ざかっていく。一人の時間を過ごせず、かといって人に迷惑かけることも出来ないから自分から他人に声をかけることも出来なくなってしまい。
こうして、どんどん内側に閉じこもっていってしまい、いつの間にか気づけば鬱になってしまっている、といった状態に。
■人は生きてるだけで誰かに迷惑かけてる、という当たり前の認識から
もともとこうした人たちは生まれた瞬間から承認待ちではなく、成長過程で何かしらの抑圧(本人は抑圧と思っていない)を受けた結果であると思います。
例えば親が何でも口を挟む環境で長年育てば、上の人間にお伺いを立てるのが当たり前の正確になりますし、学校の教育やら部活やらでも同様にこうした抑圧系の教師が居る環境で育てば、真面目に萎縮して育っていくもの。
過去を振り返ったってしょうがない。恨んでもいいですが、恨んだところでどうしようもないのも事実。彼らの歪んだ教えから脱するのにまず肝心な考えは
「あなたは生きてるだけで誰かに迷惑をかけているし、周りも生きているだけであなたに迷惑をかけ続けている」ということを自覚すること。
自分が極力慎重に行動しているのに、周りは迷惑ばかりかけてくる。何故自分だけがこんなにも不幸な思いをしなければならないのか、とお嘆きでしたら、まずその考えを改めるべき。
くりかえし、私達は例え何一つ世間の迷惑をかけないようにと思おうとも、誰かに迷惑をかけて生きています。だから、まずその自分は他人よりもよっぽどマシだ、とかいう思考は捨てるべきなのです。
■図太く生きよう
単純に考えてみましょう。図太さの無い人間、他人に迷惑をまるでかけず、主体性が無くて喜ぶのは誰なのか。そりゃ「使う側」の人間です。黙って文句言わず、指示待ち人間で居てくれる、給与の文句も言わない。
それを正しい、とか、真面目だとか、偉いね、なんて言ってるわけです。バカバカしいにも程があります。
もっと皆図太くていいんです。嫌味を言われようがヒラリとかわす柔軟性を持つべきなのです。こうした都合の良い人間を生み出そうとする悪意に対して、ジワリジワリと反抗していくべきなのです。(真っ向勝負する人は、大抵潰されます。何度か記事にも書いてますが、彼らが優位なステージで戦う必要なんて無いのです)
そうしなければ、いつまでたっても苦汁を舐めさせられて、その苦渋を味わった同士が「私の方が苦労してる」「俺のほうがもっと大変だ」とかわけのわからない言い争いを始めるのです。
■おわりに
承認待ちというのは本当に悲しい性だと思います。自分の生き方すら選べなくなる状況にまで追いやられて初めて気付く場合もございます。どうして自分だけが苦しむのか、どうして自分ばかりがこんな辛い時代を生きているのか。妬ましい、憎たらしい、なんて不幸な気持ちが心を覆い尽くすかもしれません。
でも、たった一歩、自分で誰の許しも請わずに踏み出して、図々しくも自分で考えて行動してみたら、案外自分を束縛していたものは、気づかない間に自分で背負っていただけだった、ということに気づけるかもしれません。
少しだけ、生きやすくなれればと思います。
いやほんと。
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