20140611
出典:ピープルズ無料イラスト素材
信仰という盲目は、今すぐ爆弾を手放すという発想も導火線を切るという発想も奪う

 過去の自分自身を振り返ることで見えてきた、特定の人を盲信した時に欠けてくる事柄についてです。信者とはどういう状態なのか。尊敬との違いは何なのか。そうしたものをまとめてみました。



■成功者に対する信者化の危険性




”社会的に成功した人物が「人生がうまくいく教訓」を他の人に語るときに、私はよく複雑な気持ちに駆られます。素晴らしい才能と勇気に感動する一方で、それらの話には自分が生まれた環境などの『外部要因』は考慮に入れられていないことが多いためです。世界中の成功した経営者やビジネスマンの生い立ちを聞いても、かなり似た教育水準・所得水準で育っていたことは偶然ではないのでしょうね。”

成功者達の環境については私もブログで触れてきていますが、基本的に彼らは「成功者になるための下地が整えられていた」という事実を結構無視しております。というよりもそこを言い出したら誰も成功本なんて書けなくなる。だから、その一番肝心な部分ってのは実は語られないわけです。「振り返れば私は私という人間たらしめるための環境に随分恵まれたものであった」と。そんなこと言ったら自分の手で掴んだと思っていた努力を全否定することになりますから。



信者化すると厄介なのは、この下地に目を向けなくなるわけです。「あの人がこうやって上手く行ったから、自分も見習って進んでいこう」と。それ自体が悪いというのではなく、あなたの尊敬する彼・彼女は、その人達たりえる様々な経緯を全て経過してそうなったのですよ、というのが見えなくなる。

だから、理由もなく自分自身を省みることもせず、こうしたら絶対上手くいくはずだ、と成功者を盲信するようになってしまう。自分の芯も見つけられぬまま。

成功者は成功者で「自分はこうやって上手く行ったから見習え」というような人も居る。これを鵜呑みにしてはいけないわけです。




■信仰は尊敬と否定のない世界の入り口

 先日、批評家になってはいけないという趣旨の内容を書きました。しかしながらここで一つ誤解を解いておきたいのは、批評と否定はまったく種類の違うものであるということです。

先日短い相談メールを頂きました。
「私もブログを書こうと思ったが、自分の考えを発信していくのは自意識過剰ではないだろうか」
という事に対して私からは
「私は自意識過剰であることは百も承知で書いています。はじめてもいない事を憂いている時点で十分自意識過剰なので、胸を張ってブログを書いてください」
という旨の返信をいたしました。

相談者の「自意識過剰になりたくない」という考えを否定させていただきました。

批評はすなわち、外の安全基地で物事の良し悪しを語ってるだけで何もしない行為のことを指します。
一方否定は、意見のぶつかり合いです。「いやあなたの考えは間違っている」と。これは別に傷つけたいから言うのではなく、相手のことを考えるから否定する。本当に間違っていて、心配だから、変わってほしいから、自分もイヤだと思っているから、だから、伝える。
自分の気持ちを相手に伝える。それが否定的な内容であっても、それが相手への敬意になります。

どうでもいい相手になんて否定の言葉も言わない。そもそも無関心の相手をわざわざ傷つけるなど暇人のやることです。

度々触れていますが「好き」の反対は「嫌い」ではなく「無関心」です。だから、否定の無い世界は同時に愛の無い世界です。相手にも自分の心にさえも愛の無い、自己完結型の、誰に対しても敬意の無い世界。

信者になると、盲目になると、その人の行いや言動に対して意見を持てなくなります。だから、尊敬して、敬意を払うべき。尊敬しているからこそ、嫌なことだって伝える。しかし、信者になってしまうと意見もできなくなる。自分の中の正義と照らしあわせて間違っているかどうかの判断もできなくなる。

それが、信者なのか、尊敬しているのか、の線引であると感じます。
それが、自立していく人とそうでない人の違いであると、感じます。



■信仰と尊敬

 というわけでして、信仰はいわば色眼鏡かけた状態です。自分がみたくないものは見えず、見たいものばかりが見える。その見たいものばかり真似しようとしたって上っ面真似るだけで何も自分の中で消化されるわけがない。うぐぐ書いててお腹痛くなってきた。

その人のイヤな部分も良い部分も色眼鏡なしに見て、自分のものにする。これが尊敬であると思いますし、それは対等な人間関係であっても変わらない事であると思います。

それが精神的に自立していく事なのであると思います。
過度な信仰はご用心。いつの間にか自分の足元すら見えなくなっている可能性がございます。

いやほんと。