と何度も思ってどれだけの日々を過ごしたか分からないどうもまじクズです。
という記事を読みまして、色々最近感じたことをまとめてみました。
■死ぬ前の後悔について
1位は「自分自身に忠実に生きれば良かった」ということらしいです。
全部書くとただの記事転用になるので詳しくはリンク先を読んでみてください。大体の後悔は「なんで自分はあんなにも自分のことを大切にしてやれなかったんだ」というものになるようです。
自分自身を振り返ってみて感じることですが、20数年間のほぼ全てが、我慢と忍耐と憎しみと依存の繰り返しでした。自分で自分を幸せにしてやろうという努力、自分の心の叫びに向き合うこともしないままでおりました。
多分死んだら怨霊になるんだろうなぁという程に。
■そして私は死んだ
私は長く人格を破壊されて人間としての尊厳を踏みにじられ続けて、社会に顔向け出来ないような場所で過ごし、正論と呼ばれる道から完全にズリ落ち、地獄へと落ちておりました。
生物学的には生きているが、社会的には死んでいるというか、本当に、何のために生きているんだろうか、という状態のその日暮らし。
なんでそんな事を続けていたかといえば、どこかで「自分はまだ"自分が認識している社会"のどこかで生きる事が出来るかもしれない」と傲慢にも考えていたからであります。
常識の檻に囚われていたからであります。
でもある日気づいてしまったわけです。
「ああなんだ、自分、もうとっくに死んでたんじゃん」
と。
社会的な正論にもついて行けず、負け確定の土壌でひたすら白兵戦をやっているような日々。それをコケにされ続け。死んでるも同然。死んでないよと訳の分からないプライドで自分に言い訳しながら。
ああ、死んでるよ、うん。間違いなく、死んでる。やっぱ死んでるよ、自分、この社会で。
そこから襲ってくる凄まじいまでの後悔と悲しみ、恨みに嫉妬に劣等感。
過去の私はそうしてちっぽけな檻の中、にくしみにまみれて死にました。
チーン。
■死んでから見えてきた世界
過去の自分が精神的に死んだので、オツムがゼロ歳児からやり直しです。困ったことに身体は大人なのに。黒の組織の薬が欲しいところです。
死ぬことで見えてきたものとしては、自分が必死になって守ろうとしていた檻の中での生き方、立ち位置、見ていた世界というのがとてもとても小さく、また、檻を作る人間・檻の中の強者が優位なステージだったんだなぁということ。
しがらみが消え、プライドも消え、そうしてようやく檻の外を自由に出入りすることができるようになって、檻がいくつもあって、それぞれ檻を作った人と檻の中で猛者になっている人が勝者になって、道を外れた弱者が苦しんでるんだなぁーということが見えてきて。
「あれが正しい、これは間違っている」「お前はクズだ」「自分はなんてダメな人間なんだ」こういった考えがただの一ルールに過ぎないことにようやく気づいた。
せっせと檻を作る人たち。その檻に我先に突入して縄張りを形成する先駆者達。檻を作った人たちに、社会人だ世間体だなんだのと理由をつけられ背中を押され、檻に押し込められる右も左もわからぬ後発者達。その後発者達をボコボコにする先駆者達。
なんだかなぁ。
■自分が生きやすい場選び 自分が生きやすい場作り
あんなに迫っ苦しいなら、別に檻になんてわざわざ入らなくても良かったんじゃん。自分が嬉しいお花畑育てた方が良いし、誰かの面白そうな公園に行ったりしたほうがとっても楽じゃん。実際楽しんでいる人たちは、自分で楽しい方向に舵を切っている。
また、よくよく見ていると、背中を押されているのに反発して檻に入らないで、自分で檻を作る人や檻をぶっ壊して遊園地にしたりしてる人も居る。
ああ、場を作るっていうのはとても大切なことなんだなぁ。
■死ねば恥もプライドもない
"常識"の世界で死んでもう強く意識できるようになったのは、明らかに開き直った考えが出来るようになったということ。だってもう死んだんだから、今更恥ずかしいと言われる事をやろうとも、気にしない。恥かどうかじゃなく、好きか嫌か。
プライドも無い。自分の中ではもう守るものなんて無いのですから。その分、他人のプライドを汚す人が気になるようにはなってきたような。
そして、死ぬ時に感じた圧倒的な後悔を、やりなおしてみよう、と思えるようになってきました。
そして、死ぬ時に感じた圧倒的な後悔を、やりなおしてみよう、と思えるようになってきました。
■生きながらに死んで 死にながらに生きはじめた
どう頑張っても無理、おかしい、勝てるワケがない。なんでこんな勝ち目の無い戦いを毎日しているのか。何故自分だけがこんな目に遭わなければならないのか。自分はもうダメなんじゃないか。
「だったらもうそんな不条理な常識から逃げろ!死ぬくらいなら逃げろ!」と、家入さんのように叫べればいいと思うのですが「いやいや逃げる所すらないよこんな自分」なんて状態で、毎日日陰者として生きるしか無い方々におかれましては、「既に死んでいたという事を自覚する」事をオススメします。
不条理なルールの中で何とか生き残ろうともがくよりも、死んでリセットして、ニューゲームして、今のかる~くなった身体と思考で色んな所に飛び込んで見たらきっと、全然違った生き方が見えてきます。
というわけで「さようならー生きづらかったルールに潰されたバージョンの自分。お前が経験した不条理も悔しさも、その先の死は決して無駄では無かった」
なんて感じに一度死んでみて、しがらみ何もかもを捨ててみるのはいかがでしょう\(^o^)/
死ぬと思った時、初めて自分の中の心の叫びにも向き合えるようになりますし、死ぬことでそれを実行出来なかったしがらみも捨てられます。
死ぬと思った時、初めて自分の中の心の叫びにも向き合えるようになりますし、死ぬことでそれを実行出来なかったしがらみも捨てられます。
なるべく沢山後悔しながら、一度死んでみて、その後悔を達成するための新しい真っ白な自分になってみてはいかがでしょう。
いやほんと。
※こんな注意書き必要無いとは思いますが
決して命を絶つことを推奨してるわけではございません。
※こんな注意書き必要無いとは思いますが
決して命を絶つことを推奨してるわけではございません。
コメント
コメント一覧 (10)
自分の置かれている環境なんてそう簡単に変えられるものばかりじゃないし、変えるためには相当な努力、頭のキレ、運、リスク管理能力が必要なことが多い。
言うのは容易いのよ。
それから真面目系クズって言葉も本当に嫌いだわ。俺みたいに10代から酒飲んで昼間からグータラして親の金でゴロツキみたいな生活してたやつよりは真面目なだけずっとマシだよ!てか真面目最高じゃないか。
じゃあ、これからどうすれば楽しい未来が待ってるの?
社会から抜け出して山奥で生活?満足するまで転職?それともフリーターで自由に生きる?
そのどれもそれなりのリスクはあるけど
考え方変われば世界が変わるとでも思ってる?まぁ、一週間やる気出れば良いくらいだね。
あとはまた現実が見えて絶望が始まる。
社会不適合者が社会で生きるってのは、稀有な例外を除き苦しさを必死にこらえて自分を殺して働く事なんだよ
吹っ切れたのは別に良いけど、それからどうするんだよ
また同じ事の繰り返しでしょ?
私は今日、大学の同窓会でした。同期ははみな外交的でノリがよく、有能な人たちです。
一方、私は何がどう転んだか過度に内向的です。
以前は、みなのようになりたいと本来の自分を捻じ曲げ、改善という名の自己否定を繰り返してました。焦りと虚しさの毎日でした。が、自分の精神が破たんいたしました。
後ろめたい気持ちから、余計彼らから遠ざかってしまいました。
その後、いろいろこじらせ精神病棟へ入院しました。
今は恐ろしいほど内向的な自分をできるだけ否定せずに生きています。
そして、今日の同窓会で何が変わったか、自分を試しに行きました。
結論からいえば、特に私の行動に変化はありませんでした。
同期はさらに魅力的になり、私はおちこぼれのままでした。
しかし、私は一人の私自身として、彼らと堂々と接することができました。
私は死にました。
私が縛られていたルールというものは、単に圧倒的多数派の外交的な人間が生み出した雰囲気なり、理想像であって、それは、私の生きるところでは無いのだ、と今日しみじみ思いました。
でも、やはり今日の自分の不甲斐なさに後悔も感じもしました。
「君は救われないのだ、不幸な男よ。ぼくにはよくわかっている、ぼくらはみな救われないのだ」
とはゲーテの言葉ですが、自分が何をやっても救われないのだ、器用にできないのだと真に理解できた時、私は死に、そして楽になりました。
なんか東京◯種の主人公みたいだな
言いたいことはわかるけど賛同はできない
真面目系クズって言い出したやつって絶対本物のクズだろ
それを真に受けて使い始めるやつっておいおい
あと真面目って漢字よく読んでみ
真の面目って書くんだ
面目ってのは体面のことだろ?面目丸つぶれとかそういう使い方するだろ?で、真の面目って何?って考えたとき自分が一番大切なものがあるとする。例えば自分の子供のためならピエロやってもいいバカにされても屈辱味わっても犯されてもいいって言えちゃうくらいまっすぐに思える気持ち、そういう心を持った状態の人間が子供に対して親の面目を守る姿そういう類の姿を真面目って言うんだよ。それも一例にすぎないけどな。いろんな真面目があるだろうしな。そんで真面目系クズってのは真面目な人に失礼だろうが
幼少の時からずっと自分の意思でいきたことなんてねえんだよ
今もこういう悩みを持つ人は多い。