20140422

 諦める、という単語を出していますが別段ネガティブな方向の話ではございません。普通とは何か。普段の生活で感じる"普通"という感覚がいかにして生まれているものなのか。この歪んだ既成概念から開放された時、貴方は自分自身の普通を手に入れられるものと思います。 



■普通を疑うことから普通が始まる 

 マスコミが流布したり、地元に根付いているものだったり、家庭の中で培われてきたものであったり。他者の生み出した概念が私達の性格やら人間性やら食べ物の好みなどを生み出しています。そうして、この普通に何ら疑問を抱かないままになってくると、ひずみが生じてきます。 


何かしら覚えがあると思いますが、例えばバブル期を存分に堪能した世代にとっての普通と、そんな甘い汁は一度もすすったことのない世代にとっての普通は、かけはなれたものがあります。ところが、その"普通"を発信しているのは、戦後の高度経済成長、そしてバブルを体験した彼らによって発信されているものです。 

その彼らが新しく"普通"というレールを生み出しているわけです。 

さて私達は、経済低迷時代においてその"普通"が大変狭き門であることをとっくに実感しております。ところが、その普通に到達できない方がおかしい、間違っている、という風潮に飲まれているわけです。真面目な人ほど。 

何故か? 

それが"普通"だからです。 



■そもそも普通とは何

 例外から漏れない事であります。出る杭を打つ風習により、私達は生まれながらにいかに"普通になるか"ということを人生の哲学とされてきております。

ところがその普通の基準が既に限界なのです。良い大学に入って大企業に入って、エスカレーター昇進して、という普通が、普通では居られない程閉ざされた門になってきているのです。

それは既に理想の領域です。普通ではありません。普通が理想だなんて矛盾した価値観です。

「俺が若いころにはなぁ」というのは彼らが若いころの普通をモノサシに若者を測り、けなしているのです。そんな彼らも若いころには同じことを言われていたのでしょう。この「最近の若者論」は一説にはエジプト時代まで遡るとか。

ようするに、気にするなってことです。

話は戻りまして、彼らに普通があるように、若い世代にもそれぞれ普通が存在しているのです。ところが主に世論として"普通"を発信できるのは、長年生きてきた人たちになってきております。

さて、そんな彼らが普通を発信すればするほどに、そんな理想と同義の仮初めの普通に向かって、真面目な人々は歩み、狭い門に相手を蹴落としてでも入ろうともがきます。これを一助しているのはリクルートだと思うのですがこれは別の機会に。ニコニコ動画の川上社長は相当立腹し、受験料の制定をしましたが、行政指導が入ってましたね。実にこの件はモヤモヤします。




■凝り固まった"普通"の呪縛からの開放

 そもそも庶民に普通を、協調性を求める私達の哲学の根っこの部分は儒教的な教えが絡んでおりまして、この儒教は権力者がまとまらない国民に対して道徳を植え付け、統率するためのまぁ「エラい人達に有利な教え」なわけです。

この辺わかりやすく描かれているのが、風雲児たちというマンガの中で描かれる江戸期です。興味ございましたら是非一読いただければと思います。

村社会もかつての尊皇攘夷も、現在の何となく上を敬まわなければいけない風潮なども、全て源流がこのへんに絡んでおります。昔はそうしなければ、国が統率できなかった。

ところが私達はネットの発達により、かつて無いほど世界とつながった状態にあります。この文化が開かれた状態により、価値観は統率から多様性へ向かっております。

つまり「なぜ普通に出来ないんだ」とか「普通の大人はこうだ~」なんて価値観は既に無数に溢れる価値観の中の一つでしかないのですね。ここを自覚することで、私達はようやく"普通"の呪縛から開放されます。


■数多の普通に所属するのか、普通を生み出すのか

 こうなってくると、既存の普通に所属するも良し、また別の層の他人が作った普通に所属するも良し、あるいは自分自身がありのままに居ることを普通の基準とすることも出来ます。沢山の普通が溢れかえるわけです。ってかもう現にそういう方向に向かってます。


そんな世界を自覚した上で、未だにバブリーで若者を当たり前のように虐げ、自分らが甘い汁をすするために生み出された"普通"に苦しめられる理由はどこにあるでしょうか。


■まとめ

 と、長々語りましたが、別に今貴方が苦しめられている"普通"が間違っている、という話ではございません。それが存在することを認めた上で、自分にとって苦しまない"普通"とは何なのか。働き方、人間関係、金銭感覚、倫理観、人生観…もう"普通"が正しく唯一無二(※)に存在している時代ではなく、私達は無数ある普通を選択出来るようになっているのです。


それを自覚したら、普通の自分で居られるような気はしないでしょうか。


いやほんと。




※補足:
 昔から特別正解を強制されていたわけではないのですが、日本をかつて統制すべく発展した儒教(特に朱子学 水戸学が初期?)の大義名分を掲げる思想はどうしても倫理的道徳的な正義を追求し、悪しきを叩く方向に傾倒しやすいが故に、私達の思想が凝り固まってしまうのもしょうがないものではあります…。そりゃ昔からそれが正しいって言われてるんですからアイデンティティの中核を担いますよね。
村八分の考えなどは儒教がベースになっている以上生まれるべくして生まれたものであると、まじクズは推測致します。民衆が相互に監視する道徳なわけですから、そりゃエライ人にとって都合が良い。昨今の炎上の件などもまさに民衆による民衆の監視。
これが良いとも悪いとも言えない所ですが、大義名分に思い切り傾倒した正義論が暴走気味なのは確かだと思います。
というわけで私達の思想ベースを知るのは、自分を知るという上でも、より他人に惑わされずこれからの時代を生きるという上でも、大変重要なファクターであると考えます。