20140312
元素材:http://www.irasutoya.com/2012/07/blog-post_20.html


 偉そうなこと言ってますが、お恥ずかしながら私自身が勘違いしていた、社会における責任の取り方についてのお話です。

 とりあえず「辞める」「お金を払う」「クビをつる」とか、「指をつめる」これはアチラの世界ですが…そもそも逃げに逃げてきた人生において、責任ってのはどう果たすべきなのか。私達は誰からも教わってこなかったように思います…。

本日は当たり前の事を、今一度振り返ってみましょうという主旨です。

 

■責任の構造

 何か物事を進める上で必ず責任者が発生しますね。船乗りなら船長が判断を下しますし、部活ならキャプテンがチームの意見をまとめてコーチとやりとりしたりキャプテン自らがチームに指示したり。

会社であればプロジェクト進行にあたり、社長は専務に伝え、専務は常務に伝え、常務は部長に伝え、部長の指示を課長に伝えて課長は係長に、係長は主任に伝え、主任はヒラ社員に伝え。実にまどろっこしい…まぁようするに組織のトップである社長が責任を取る立場として存在しているわけです。

逆にヒラ社員であれば何か失態したときに主任が責任をとらなければならない。その失態が主任レベルで収まらなければ更に上が更に上が・・・と。これがピラミッド構造の責任形態ですね。その損失が社内にとどまらなければ、会社の代表として社長が責任を取ると。



■責任って何

 で、責任ですが、私達は奴隷ではありませんので何かしらの行動に「自由」が与えられています。そして責任とはこの自由に付随して発生するものとされています。
例えば車に乗る自由を行使すれば、より早く目的地に着く権利が得られたり、雨風をしのぎながら移動する権利が得られたりします。一方で何かを損壊する責任、誰かを負傷させたり命を奪うかもしれない責任、何より自分自身の命に対する責任が発生します。

会社員になれば、会社から給料をもらう権利が得られますが、就労を果たす責任が発生します。
起業すれば、何かしら社会に発信する代わり、自分が発信したものに対する責任が発生します。

誰かに呼吸一つまで命令されるがままの人生で無い限り、私達は常に自由と責任と隣り合わせの日々を過ごしている事になります。



■責任の勘違いの元

日本における「責任」の様々な用法

従来より、日本社会においては「責任」という概念・語がよく理解されておらず、本来のresponsibilityという意味とはかなり離れてしまって、義務という語・概念と混同してしまったり、義務に違反した場合に罰を負う、という意味で誤用してしまう人も多い。あるいは、もっぱらリスクを負担することにのみ短絡させている場合もある(部分的には重なるが、同一ではない概念である)。

で、私達がよく勘違いしがちな責任がコチラになります。古くは戦国時代の切腹などでしょうか。面子を何より大事にする武士道において、面汚しは命を断つことによって償うという風習。そしてそれを潔いとする誠悪しき風習。これは現代においてもアチラの世界などで受け継がれていますね。指を一本切ったりとか。

ですが、失敗を全て「自分が身を捨てることにより解決する」というのは、実際のところなんの責任を果たしてもいないわけです。面子命の時代は生き恥を晒すくらいなら死ね、でしたが、今のご時勢恥などはどうでもいい。



■責任の取り方

 例えば仕事の失敗は、その失敗において損失した各々の時間やお金をどう取り戻すかが重要であり、謝罪や責任とって辞めるなどは全く無意味で無価値であるわけです。もし、あなたがどうしてもその座などを退かなければ解決しない問題であったとして、それで初めて職を辞す事が責任を果たすことになるわけです。

謝罪したり退職することや自殺することは、ただの手段でありその手段が必ずしも責任を果たすという目的につながっているわけではありません。目的…ミッションはあくまで「責任を果たす」ことです。

で、分からなければ聞けばいいんです。「どうしたら責任を取れますか」と。恥を忍んで。聞かないで、勝手に進めて、かえって悪化して、ますます取り返しがつかなくなる事だってあるんです。責任とれや、と言われてるのはそこであなたがやれる事が終わった、ということではなく、失敗出来ない仕事が新たに発生しただけです。だから、また失敗しないように、聞く。ダメなら考える。それは本当に自分でなければ出来ない事なのだろうか、なども全部含めて。焦らず、冷静に、冷静に。

でも、大体の人はどうしたら責任とれるなんて教えてくれないと思うので、そこはもう自分自身に責任をもって、責任を果たすしかないですよね。



■何故責任をとるのか

 責任を仮に果たしたとしても、叩く人は叩きます。世の中残念ながら失敗に寛容な人はあまり居ませんので。でも、責任を果たす能力は、あなたの人生にとってプラスにこそなれど、マイナスには一切なりません。逆に、日ごろから起こる責任に目を向けず、いざとなっても何も出来ず逃げるだけを繰り返していれば、自分にとってマイナスになっていきます。実体験済みです(笑)

何かの責任をとるというのは、めぐり巡って全て自分のためになります。仮に責任を放棄して逃げたとしても、逃げた自分の人生に自分自身が責任をとってやらないと、自分自身をどんどん追い詰めてしまうことになります。「責任とれ=逃げるな」ってことじゃなく、最終的に全て自由意志で判断した結果生まれた責任は自分に返ってくるのだから、その認識は常に心においておいたほうが、人生健全に生きれますよ、という話でした。

こうしていれば、何より、「誰かのせい」にして生きる人生とはおさらばできます。この「誰かのせい」は、一生あなたを苦しめる思考です。物事がうまくいかないのを全て誰かに期待し依存し、その期間ずっと苦しむわけです。ハラハラしながら。それならば、自分の責任において、生きたほうがよっぽど健全ですよね。





■余談:勘違いを増長させるマスメディアの「責任追及」

 最近のこの責任追及で頭が痛くなりそうだった会見が記憶に新しい、佐村河内守氏の謝罪会見ですね。やれ「あんた聞こえてるんじゃないの(笑)」とか「あなたを信用してた人達に対してどう言うのですか」とか、ヤンキーのいじめ現場のような会見には心底あきれ返りました。

では佐村河内守氏が実際に果たさなければならなかった責任とは何だったのでしょう…といえば、返金を求める人には返金し、謝罪を求める人には謝罪し、仮に手帳を悪用していたのならしかるべき刑罰と補助金等の返金、何をしたって許さないと言われればその言葉をかみ締め余生を過ごし。
それが彼の行った自由により生まれた責任であると思います。

で、肝心なのは別にマスコミは関係ないよねってところです。国民の代弁者でも何でもないマスコミ達に私怨なのか面白半分なのかで罵倒され、謝罪を求められている構図がおかしいという話です。

今回の件は佐村河内氏が行った自由と責任に対して苦痛を伴った人達との間で執り行われるべき問題点であって、それを全国中継の中でリンチにあわせる事とは何も関係が無いのです。つまりマスコミはただ自分達が優位に立って一方的に暴力を行うヤンキーと何ら変わらないわけで、そのくせこの手の会見での暴力的な発言などに対する謝罪は行わないわけです。というわけでマスコミこそが何ら自分達の自由に対する責任を果たしていないというわけですね。

と、これは脱線ですね…。ようするにこうした「責任逃れを巧妙に行う意地汚い奴らが大手を振って第四の権力」などと吹聴しているから、責任に関する認識がおかしな方向に向かっているわけです。



■まとめ

 ダラダラと理屈をこねましたが、要するに何かを行えば必ず責任が発生する。生きてれば必ず失敗しますので「責任とれ!」と言われたら、どういった責任が発生しているのか、考え、分からなければ恥を忍んで聞く。「自分はどんな責任をとらなければならないか」と。まぁ大体教えてなんてくれないとは思いますが…。で、責任を果たすために行動する(目的)。そこで初めて、謝罪が必要であればする。本当にもう自分が居なくなる事でしか解決出来ない事であれば、退職する(手段)。

とにかく目的と手段を履き違えない。
「責任を取る=死ぬ」では断じて無い。

また加えて、逃げる事は目の前の事への責任放棄だが、要するに最終的に逃げたとしても、その逃げた自分の人生に対する責任を自分がとれるようになる事が何よりも大切なので、必ずしも「逃げる=罪」とは考えない。

そうして責任を認識し続けてたら、巡り巡って自分の人生に責任を持って、懐のデカイ人間になれますよ、というお話でした。


 さて世の中を見渡してみれば、歳をとるごとに、あるいは組織が肥大化するほどに、責任回避能力ばっかりいそいそと磨く側に回る人々が多いように思います。そんな世の中で、自分の責任で生きる事が出来たら、かっこいいですよね!それに、そうした人に結局人間は惹かれるんだと思います。そうした人に、信用も仕事もお金も地位も名誉も集まるのだと思います。


いやほんと


関連書籍