LINEQというアンケートアプリが2~3ヶ月前からスタートしました。質問者の一問に対して、同アプリを使用している様々な人達が答えていくシステムです。
私も面白いのでよく覗いては質問したり回答したりしています。tiwtterと同一アイコンなので良かったら探してみて下さい。
このアプリの中で、教頭の父親の暴力によるしつけにより中学生の弟が責められているのを悩んでいる兄が投稿しているのを発見しました。テストの点数が悪いと部活を辞めさせられたり、塾をサボったら叩かれたりご飯茶碗一杯白米だけのご飯にされたり、酷いときはマグカップなどで殴られたりなど。母親はそれを見て見ぬふり。
見ていて心が痛くなるのですが、私にとって危惧すべきは、この質問者の内容よりも、それらに回答している人達の内容にありました。

■自分の環境が育ってきた環境が正しいものであるという自信

 私は自分の育った環境は一時期正しいものであると思っていました。人よりも多く我慢すること、人よりも複雑な家庭の中で何とか真面目に先生や親の言うことを聞くこと、その延長で上司の言うことを聞くこと。上の人間が言うことは正しい事であり、自分は劣っている人間だということ。

なんでそれを正しいと思っていたのかといえば、そうした環境の中で育つことにより他者とのコミュニケーション能力が欠如してしまった結果、その世界が私にとって唯一正しいものであると信じていたからです。ある意味洗脳。

今でこそ常に広く価値観を手に入れようと躍起になってきたおかげで大分世界が広がりましたが、それでも未だに悩むことは多々あります。


■不幸はいかにして連鎖するのか

 冒頭の質問者に対する回答で、こんな回答がありました。
「それが親のしつけだろう。その時期はそれぐらいが当たり前だった。虐待とか大げさ。立派に育ってほしいから厳しくしてる」
「親が教頭であれば教育の大切さを知ってるのだからいう事を聞くべき」
「たいしたことない」
「それが教育というものだろう」
「頑張って欲しいというお父さんの気持ちの現れだと思う。親としての気持ちが分かる」


■自分の世界を他人に押し付けることから不幸の連鎖が始まる

 上記のような意見に勿論反対意見もありましたが、不幸の連鎖は彼らのような思考から生まれていると思いました。それは、自分が育ってきた環境をただしいものだと認識していることです。あるいは自分が受けてきた不幸などを比較して「それくらいなら大丈夫だ」という思考停止状態。彼らのような思考を持った人間がいずれ親になったとき、また同じ事を繰り返すことになります。


■私の見解

 質問者の環境は異常。教頭の父親は、自分の体裁を保つための道具としてペットとして子供を「しつけ」ている。これは教育でも何でもない。ただの支配者・被支配者を作り出す洗脳。人間の尊厳を踏みにじる行為。そのような育てられ方をした人間は将来必ず思考停止して自分の子や周囲に同じ事を繰り返す。彼が受けた痛み・不幸が更に不幸を生み出す。それは教育ではない。人を人として扱わないただの虐待である。それを教育だなどと言語道断。

みたいなニュアンスのをやんわりとLINEQでも答えました。


■子どもにとって親が世界であり居場所

 発達障害・愛着障害の理解を深めるなかで、親子とのコミュニケーションが子供に及ぼす精神的発達はほぼ確定事項。とりわけ日本は無宗教なので、子供時代に親よりも偉大な存在というものが居ません。イエスもブッダも天から見てくれてはいません。親の後ろには何も無く、親こそが神であり親こそが正しいものであります。子供のマインドをいつでも支配できることを理解しなければならないように思います。


■教職者が陥る盲点

 知人や親族に教職者が居ますが、彼らは日常的に子供らと関わりあいながらストレスを抱えているため「子供」という記号で彼らをくくりがちになるようです。それは自分の子供に対しても同様に。「先生がなんとかしてやらないと何も出来ない」「だって子供じゃないか」「成人していない養ってもらっている身」また、そうして教職者や目上の人間を絶対とするような思考は、将来的に自分の頭で考えられない指示待ち人間を多く生み出す事も追記します。


■子どもはどうしたらいいのか

 家の外に溢れてる無限大の世界に目を向ける。よく「自分の周囲も見れずに…」なんて言葉を耳にしますが、その周囲自体が間違っていたとしたら?例えばありえない話ですが「昼は絶対に出歩いてはいけない。太陽は人を殺すために存在している」という常識が自分の周囲だけでまかり通っていたとしたら、おかしいでしょう。そんなことありえない。極端だから笑ってられますが、自分の環境というのは以外に偏った思想で埋め尽くされている可能性があるのです。土台がそもそも間違ってるなら土台からキチンと作り直さないといけない。そうするためには、幅広い視点を手に入れることが何よりも重要だと思います。

本来学問とはそうした幅広い価値観を取り入れるため、人生の選択肢を増やすためのものであったはずであり、点数を取ることは目的ではなくただの勉強の理解度を表す指数に過ぎなかったはずなのですけどね…。



■連鎖を止めるには?

 やられてもやり返さず、より良い方法を考える。「因果応報」というのを「目には目を~」と勘違いしている人が多いように感じます。因果は良い事も悪い事も、やったことに対する報いがありますよ、という仏教の教えであり、ハムラビ法典の合理的応報刑とは意味が違います。ちなみにハムラビ法典も、目をやられたらとしても目にやり返す以上の事はしてはならない、というものです。昨今の炎上案件などはこれらの常軌を逸してますね。

話が逸れました。

ようするにやられた人間にやり返しても、またその倍返しが本人から直接であったり周囲から間接的に返ってくるだけです。これが連鎖の仕組み。非科学的に言えば、不幸の遺伝子。あとはやり返したら自分が同じ程度に落ちるという考え方もあります。そもそも親世代であっても、彼らもまたそうした連鎖に取り付かれているだけに過ぎないわけです。

我慢しろということじゃなく、自分がやられた行為を例えば書き記しブログで書くことにより、誰かを勇気付けたり自分だけが不幸な人間じゃないんだと周囲を安心させたり不幸ってこうして起こっているのか、というのをシェアする。

そうしていつまでも小さな世界に閉じこまらないことが、不幸の連鎖を断ち切る方法だと思います。

あとは不幸比べをしない。


■人とつながろう

別にネットでも何でもいいです。ネットとのつながりを軽視する人が居ますが、幽霊怖いIT怖い言ってるのと同レベルの価値観だと思います。twitterやLINEにブログにこれほど自由に誰とでもつながれる時代はかつて無かったのではないでしょうか。

この世界の広がりに便乗しない手はありません。もう小さな村レベルの価値観にとらわれることなんて無いんです。誰がどれだけ止めにかかろうとも、インターネットにより世界が繋がった現代の価値観の多様化は止められません。


というわけで、自分の生きやすい、子どもが生きやすい、親も生きやすい、そんな価値観を見つけていければ過去の狭い価値観の中で生まれた不幸の連鎖ではなく幸福の連鎖が始まるのではないかと思います。別にそれは自分で始めてしまうのだっていいはずです。


いやほんと