自己責任について悶々と考えていました。私個人としては基本的に何でもかんでも自己責任にすることは大いに賛成です。ところが1年前の自分は何でもかんでも自己責任にすることには否定派でした。過去の自分を否定する気も無く、であれば二つの異なる価値観を持てているかもしれない今、自分自身で意見をぶつける事で何か見えてこないかなと思い、その旨を執筆してみました。

自己責任肯定派・・・なんでも自己責任に捉えた方がポジティブに世の中が向かうと思ってる
自己責任否定派・・・全否定ではなく、棲み分けがされた今に磨きがかかった方が良いと思っている

■自己責任賛成派として1

 私は自己責任が好きなのですが、それは目の前で起こることはあくまで常に「結果」であって、それにどのように対応するかが判断を下す、これが「自己責任」であると考えているからです。つまり地震が起こったとしても、その地域に住んでいる私もまた自己責任ですし、助かるように必死に行動するのもまた天命に任せるのもまた自己責任です。過去3回ほど震度5強、6クラスを経験していますが生きているのもまた運に身を任せた自分の責任であると思っています。

また、皆が自己責任を持つことで、より自分の頭で考えて行動するようになるだろうな、という思いがあります。自己責任の対義語は他者依存であると考えております。自己責任が欠落すれば、何事も他人の価値観や判断に任せることになり、結果として自分の人生が苦しいものになります。皆苦しんでないで自己責任で自分の人生を選べるようにしていければいいのにな、と心から思います。

 自己責任を否定する考えとしてイヤなのが、全ての人間を自己責任で片付けることで、非情な世の中になるという考え方です。その考えに至る理由は、自分自身が施しを求めているからに他ならないからだと思います。また、他人の不幸を自分の尺度で決めつけて「施し」を与えようという考えが原点にあるような気がしているからです。苦しい思いをしている人間に必要なのは「施し」ではなくその逆境から這い上がるための知恵です。施しから生まれるのはただの依存か復讐です。自己責任否定派は弱気を助け、強気を挫くスタンスをとっていると思っていますが、弱気を助ける=施す=優越感に浸る、という精神構造を持ち合わせているように感じます。

故に自己責任を否定する人間は人間としての学習性や思考力を奪い、貴族階級のような支配を無意識に求め、その自分を正当化する人間であると感じます。一人一人が自己責任のもとに人生を踏み出せるような機会を作り続けることこそが最も必要な処方であると思います。


■自己責任否定派として1

 私は自己責任という言葉が嫌いです。自己責任と言う言葉を盾に、最低限の行いもしない人間が後を絶たなくなるからです。食品偽装してバレて批判されることも自己責任で、その食品により被害を受けた人達がたまたま食べてしまったことも自己責任。そんなことまでイチイチ自己責任にしていては人は何の指標も無く生きていかなければなりません。全てを自己責任に置き換えることによる問題の多さが目に付きます。あなたの言う自己責任は結果として世の中全体の秩序を乱し、規律の無い安心感が一切無い世の中になることを望んでいるように思います。

また、例えば生まれる親は選べません。どんなに子供が虐待を受け、その上で死んでしまったとしてそれはその子の自己責任であると言えるのでしょうか。あなたの全てを自己責任にするというのは、確かに万人が前向きになる考えかもしれませんが、それと同時に起こる多くの不幸についても自己責任で済ますのはあまりに歪んだ考えなのではないでしょうか。


■自己責任肯定派として2

 自己責任を否定する方々は少なからず社会的に弱い人間の立場に立って物事を発信します。そうした立場に立つこと自体を悪いこととは思いません。ですが、そうした弱い立場に立ち、弱い人間は弱い人間であるという棲み分けを行う思考が問題であると私は思います。何故なら実際に弱い人間の立場という概念を作り出しているのは、あくまで他人の評価であり、自己の評価を決められるのはあくまで自分です。自己責任を捨てて、他者や制度に依存してしまうと「○○してくれないのが悪い。私はこんなに不幸なんだから○○されるべき」という主張をすることに繋がってしまいます。

あなたが言う、不幸な子供のお話を例にします。あなたが全てを自己責任にしてしまうとそういった問題が解決されなくなると言いました。それは暴力を振るう親のせいでしょうか。助けてくれない社会のせいでしょうか。今の日本の構造においては極力そうしたことが起こらないような他者も責任を負う社会構造になっています。それでも尚そうした悲惨な事件が起こっています。例えば隣人は子供の悲鳴を聞いたと言っています、なのに助けを呼ばなかった。つまり「誰かが何とかしてくれる」と思っていたから「もし間違いだったら迷惑をかけてしまう」と自己保身に走ったから。子供が突然殺されたわけではありません。自己責任を周囲の大人が放棄したことによって起こったのです。それなのに、常に日の目に晒されるのは犯人と起こった「悲劇という現象」だけです。彼らは何故虐待をせざるを得なかったのか。他者依存を無くし自己責任を推奨するのは、そうした理解を一人一人が行うことにより考える力を身につけることを進める事で結果として互いが互いを尊重するようになる世の中になると思うからです。

確かに食品の問題については否定しません。しかし、各々が考える力を持てば、より誠意を持っている人間が報われる世の中になると考えております。何故偽装が起こるかを考えたとき、経営状況、立地、などに目を向けて考える力を持たざるを得なくなれば、安さのカラクリなどに気付いたりも出来ます。自己責任が身につくことで、結果として未然に自らに起こる不幸を察知することもある程度予測出来るようにもなるわけです。「何をバカな事を、そんなことイチイチやっていられるか(笑)」といわれるかもしれませんが、笑っている場合ではなく「そんなことをイチイチ考えなくても良い世の中自体が誤りである」と何故考えないのでしょうか?

他者の責任、他者への依存が作り出す世の中は、誰にも「都合の良い後ろ盾」を作ることになります。その「後ろ盾」を上手く利用した人間が勝利する歪んだ世の中になり、利用できなかった人間が悔し涙を流す世の中になると考えます。だから、私は自己責任を求める世の中こそが人間として正しいあり方であると思います。



■自己責任否定派として2

 あなたはそうした考えが根付いているから言えるのです。その思考も出来ないような年端もいかない子が殺されているという事実から逸れています。貴方の考えは子供にも自分で責任をとれと言っていると同じです。話題を逸らさないで下さい。

また、自己責任が生み出す世の中は同時に自己都合の世の中になる事にも繋がります。各々が自己都合で動くようになってしまえば企業や国家そのものの制御もきかなくなります。今あなたがそうした考えを当たり前のように出来、発信できるようになったのは誰のおかげなのでしょうか。何でもかんでも自己責任でやっていては成り立たなかったからこそ統率し、皆で一つの方向に向かい発展してきたからこその今があるのではないでしょうか。

あなたが自己責任を追及することでそうした背景を踏みにじる事になるとは考えないのでしょうか。あなたの何でも自己責任にするという思考は、強者は生き、弱者は死ねという事を暗に言っているということに気付かないのでしょうか。先ほど弱者に施すことを否としましたが、否ということは死ねと同義となると思います。あなたの発想は人道的にもいかがなものかと眉をひそめざるを得ないです。現状の、責任の所在がある程度はっきりしている世の中で、自分は自分の中に及ぶ責任を考える世の中が一番バランスが取れていると思います。


■自己責任肯定派として3

 急速な変化がもたらす要因としてはあなたがおっしゃられているような事象が起こると思います。世の中が全員が瞬時にして何でもかんでも自己責任になれ!と言ってなるわけではないことも理解しています。ですがあなたはやはり目の前に起こっている「結果」に執着しているように感じます。そうした子供の悲劇は子供だけの問題ではなく、親もまた悲劇に巻き込まれているのです。その親の目を覚まさせるにはどういう世の中になればいいのか、周囲はどうならなければならないのか。自己責任に求めているのは「苦労している人間が不幸を受け入れろ」という事を由とすれ、ということではないのです。各々です。各々が責任の所在を明らかにするのではなく「結果」を自己責任として感じられる土壌が出来上がってくれば、いずれそうした問題も起こらないような世の中に変革されていくだろうと思うのです。

国家を否定するわけではありませんし過去の否定もしておりません。しかし、価値観が着々と変化していく世の中で過去の考え方が間違いに繋がる事も認識しなければなりません。日本が軍事国家として中央集権のままで居れば未だに北朝鮮のような状態だったかもしれません。しかし多様化を認め、国が発展の指針を示したからこそ昨今の日本があるわけです。しかしその考えでは幸せになり続ける事が出来なかったのは体感しているはずです。「ある時は正解でもある時は間違っているかもしれない」という事を常に意識しなければなりません。否定ではなく、常に考えるべきではないかと思っているのです。

責任の所在をはっきりさせることは果たして幸せなことなのでしょうか。責任の所在をはっきりさせることにより強者と弱者の棲み分けがより明確になっているのではないかとは考えないのでしょうか。他人にハンドルを握られた事を是としながらそれをバランスが良いというのは間違っていると思います。それは、ハンドルを握る人間次第ではまとめて不幸に導かれるということでもあります。「自己の責任はここまで」と括る事が実は弱者にとってリスキーになっているとは考えないのでしょうか。そのバランスから開放されることこそが弱者も強者も平等にリスクを背負うことにつながると思います。



つ、疲れた…否定派の反論も囲うと思ったけど今日はここまで。自分の脳と対話するのは目が回ります。でもたまにこうした不毛なことを考えるのも楽しいです。自己と対話し、否定し、破壊することで新しい発見が見つけられたり、より自分が考えていることが鮮明になってきたりするので面白いですよ。

いやホント。




続く?