親から子ども時代に安全基地としての機能を果たして貰えなかった子どもは
「愛着障害」という症状に生涯を通して悩むことになるみたいです。


愛着障害について、ずっとブログのサイドカラムで紹介してきたのですが
ちゃんと記事として書いていなかったと思ったので
今回「死」を題材に絡めてまとめてみました。



■愛着障害について


簡単に説明しますと
・子どもの頃に親が子どもに過度な愛情を注ぎすぎ、子どもに依存した状態になる。
 それにより、子どもが親の期待を背負いすぎてしまい自己決断が出来なくなる。
 自尊心の著しい欠如が生み出される。
 誰かの判断が無ければ生きていけなくなってしまう。

・子どもの頃に親が子どもを過度に束縛し、ルールやしきたりに縛り付けたり
 精神的、肉体的体罰を行うことで、子どもが自発性を一切失う。
 親に依存しなければ生きていけない閉じられた世界にしか目を向けられなくなる。
 家が安全基地でなくなるため、子どもは幼い頃から「死」を天秤にかけて生きることになり
 早期の段階で保守的な思考停止に陥ってしまう。
 喧嘩も自分の問題ではなく、その後ろにある親の面子や
 会社員であれば、上司や会社の面子などに目が向かってしまう。

・親が常に不仲であり、常に子どもが仲裁者になってしまっている。
 そのため、子どもは早い時期から英雄思考が備わってしまい
 自分が悪い、と家族円満のための犠牲になることが習慣化してしまう。
 それ故、問題解決能力が「自分が死ぬほど苦労すれば・我慢すれば・死ねば」
 という方向に向かってしまう。

短く書こうとしてもこれだけの内容なので
詳しく知りたい人はやっぱり愛着障害の本を読んでみるといいです。
偉人から現在生きてる人達の事なども例に上げられています、
で、上の例から分かる通り子どもの頃から常に「死」を考える事が
普通に愛情をもって育てられた子よりも多いわけです。



■「死」について

私達のような真面目系クズが逃避行動に走りがちな理由は
物事の局面に立たされたときイチ「生」かゼロ「死」かの選択しか与えられてこなかった
と、錯覚しているからです。

普通は自分の意見に対して反対意見があれば
その反対意見に対する更なる反対意見や改善点などを打ち出しますが
人生で極端な選択しか得られず、いずれも「生き残るには」からの
観点からしか物事が考えられないため、「死を回避する方向」
すなわち当たりさわり無い意見の提出や
相手の顔色を伺いながら、どれが「正解」なのかを探ってしまうわけです。

これは安全基地で過ごした経験がほとんどが無い私達真面目系クズが
本能レベルで染み付いてしまっているクセです。
だから、どちらかを選べばどちらかに嫌われる(どちらを選んでも死)の決断が
迫られてしまったとき頭が真っ白になってしまうわけです。
その決断が他の人から見て「なんでそんな程度のことに顔面蒼白になるんだよ」
というレベルであっても。
レールから逸れることも常識を疑うことも、間違ってることを間違ってる!と言う事も
プライドが傷つくのを恐れることも
全部「死」を関連付けさせるから、極度に恐れてしまい、踏み出せなくなってしまう。
あなたの周りに居る極度に失敗や決断を恐れている人も
「成功への経験・ステップ」ではなく「死への片道切符」という前提でとらえてしまい

ガチガチに思考が停止してしまっている可能性があります。


■愛着障害の成功者?

別に自己弁護したいわけでも、真面目系クズってかわいそうですよね!と言いたいわけでもなく
そういう思考回路になってしまっているなら、改善も生かす方法も考えられるわけです。

例えば最近良く話題にしている堀江貴文氏ですが
ゼロで家族の様子などを知り、それ以前の著書などを調べてみれば
彼は愛着障害の気があるなぁと感じます。


自分の自信の種を与えてくれたのは、小学生時代の担任であったという事や
収監された先での一番の感想が、若い看守の優しさに嗚咽を漏らし泣いた
というところから読み取るに、彼は安全基地として
家庭から得られる愛情という部分が欠損しているように感じます。
だからその分、他の人から与えて貰った無自覚の愛情を深く心に刻んでいる。

それで、つまるところ考え方を変えれば
愛着障害に陥った人であっても凄い人はどんどん前に進んでるわけです。
愛着障害の本の中ではクリントン元大統領の乱れた私生活の模様や
自身の人間性について深く悩みながら文章を執筆した夏目漱石などにも触れられています。

こうなってくると、私達のように愛着障害に苦しんでいる人達と
彼らとの違いは単に、自分で前に踏み出しているか
殻に閉じこもり、外の世界に怯えているか、の違いのように思えます。


■死は常に隣に居る

どんな人にも死はつきまとうものですが、
それはつまり誰もが死と何らかの付き合いをしているわけです。

死にたくないから殻に閉じこもるという
自分の中の安全基地で安らぎを得るわけですが
何したって死からは逃れられないのです。
で、あれば死に怯えるのではなく
死期が勝手に来ていつか自分を殺すだろうと開き直ってしまい
死について考えるのをやめてしまうのがいいわけです。

つまり、誰に嫌われようが借金を背負おうが間違いをおかそうが
そこの先にある自分の「死」を軸に考えるのではなく
しっかり目の前の問題に向き合う事を考えればいいのです。



■何故死にたくないのか

体験したことが無く、自分にとって前例の無いことだから怖い、それだけだと思います。
死んだらこうなる、という前例にビビってるからだと思います。

人間誰でもいつかは死ぬのだし今のところ回避方法も無いのだし
いちいち、自分の決断の先の死なんて気にしないで
結局その時その時に自分が「好きか嫌いか」で
判断したほうがいいんじゃないかなーと思います。

そうしなきゃ肩の力張り続けてるクセに
周りにも理解されないし、成功へも遠ざかるし、変化も出来ないし
ずーっと自分に言い訳ばっかりし続けることになりますし
なーんにも得が無いですよ。



■死への恐怖を武器にしてしまえ

また、死を敏感に察知する能力を逆に生かしてしまうという考え方も出来ます。
言い換えれば常に極論で物事を判断するわけですから
少しでも「死」に近い方向への嗅覚が他人よりも優れているわけです。
だから、その嗅覚を武器に決断をしていくことで
実は生存率は他人よりも優れているかもしれませんし
大きな成功を手にするポテンシャルも秘めているのかもしれません。
なので、この愛着障害を武器にしてしまおうと考えれば
他の人より劣る、なんて気持ちにもならないように思います。



人生の欠点は全て利点にも繋がります。
だから、死に恐れず利用して、これからの人生を
自分の決断で踏みすすめていきましょう。
そうすれば、きっと変われるはずです。
きっと成功できるはずです。



■愛とは


ただ、ひとつだけ私自身が現在悩んでいる愛着障害の弊害があります。 それは

・自分に対する愛を受け入れてきた下地が無いため、他人の愛が理解できない。 

要するに愛をへの理解が著しく弱い。
これをどうするかが結構課題になっています。
妻ともなかなか折り合いをつかせられず・・・。
自己理解はしていても、その感情へのプロセスへの理解が欠損しているので
こればっかりは難しい。
何とかしたいものです。